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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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71.光を背負いし

 ヴァロニアへ向かう旅は、思いのほか穏やかだった。

 西大陸を抜け、三頭の馬はゆっくりと粉砂漠を越え、中央の地へとたどり着いた。

 広がる砂地の荒野は、無限の静寂に包まれていた。

 乾いた風が吹き抜け、馬のたてがみを優しく揺らす。

 日中は灼熱の陽光が大地を焼くが、夜には冷たい風が肌を撫で、空には無数の星々が瞬いていた。

 焚き火の灯が揺れ、馬の鼻息が夜の静寂に溶けていく——そんな日々が続く。

 ファティマもまた、少しずつ落ち着きを取り戻していた。

 時折、何かを思い出すように遠くを見つめることはあったが、それでも以前よりは穏やかに見えた。

 ジェードとは自然に会話を交わすようになり、二人の間には微笑ましいやり取りが生まれることもあった。

 ハリーファだけは、彼女と距離を取っていた。

 母親(ファティマ)と話すこともなく、たいていは二人の会話に耳を傾けているだけだった。

「ファティマさんは、乗馬も上手なのね」

「小さい頃から、お兄様に教えてもらっていたの」

 皇女らしい品のある口調だった。

 風が彼女の黒髪をなびかせ、その微笑みはどこか幼い少女のようにも見えた。

「お兄様?」

 ジェードが首を傾げると、ふふっと笑う。

 ファティマに兄はいないはずだ。

 もしかしてジャファルのことを指しているのだろうか? 二人の後ろでハリーファは耳をそばだてる。

 ジェードが彼女を見つめていると、ファティマはくすくすと笑った。

「母の弟だから、本当は叔父様なの」

 穏やかな二人の会話に、ハリーファは軽く息を呑んだ。

「お兄様の、漆黒の髪や、憂いを帯びた瞳が好きだったわ」

 ファティマはどこか遠い目をして呟いた。

(あっ、お兄様って、やっぱり宰相の事よね。今、どうしてるのかしら……)

 ジェードも気付いたようで、心の声がハリーファに届いた。

 ファティマは、自分がジャファルの第三夫人であったことを覚えているのだろうか?

 それとも、その記憶は抜け落ちているのか——?

「わたくしは母を亡くして、父親もいなかったの。だから、お兄様が、本当の妹のようにかわいがってくれたの」

 その言葉に、ハリーファは思わずひやりとした。

 父親——ハザールの存在を、ファティマはどう認識しているのか?

 彼女は、「父がいなかった」と言った。

(あの時見た少女(ファティマ)は、狂った自分(ハザール)が生み出した幻覚だったのか……?)

 ハリーファは、馬の手綱を握る手に少しだけ力を込めた。

 今こそが現実であることを確かめるかのように。

 ハリーファは、ファティマの言葉を噛み締めながら、そっとファティマの横顔を見つめた。

 品のある微笑みを浮かべているが、その奥に何かが隠れているような気がする。

 不思議なことに、ハリーファはファティマの心の声を聞くことができなかった。

 【エブラの民】の血を引く者の心の声が聞こえなかったのと同じように。

(……魔女の心も、聞こえないものなのか?)

 それとも、ファティマ自身が何かを強く隠しているのか。

 ハリーファは、確かめるようにファティマを一瞥したが、ファティマはただ穏やかに微笑んでいた。




 太陽が天頂に達し、影を飲み込んでいた。

 砂漠の空気はゆらめき、熱砂は風に舞う。

 かつて神殿があった聖地オス・ローは、今も瓦礫と沈黙の中に眠っていた。

 崩れ落ちた柱、埋もれた石畳。四年前から何一つ変わっていない。

 ジェードは、丘の上に視線を向ける。

 そこに、【天使】アルフェラツがいる。

 彼女の声は、ジェードにだけ聞こえていた。

『……ジェード……』

 その声は柔らかく、けれどどこか冷ややかだった。

 ハリーファにも、ファティマにも聞こえていない。

「……ねぇ、ハリ、あそこでアルフェラツ様が待っているわ。わたしとハリが出会った場所……」

「行こう」

 ハリーファがそう言った時、ジェードはそっと首を振った。

「……わたし、ここで待ってるわ」

「ジェード?」

「怖いの……。天命に従えなかったから……アルフェラツ様に、会うのが」


 ハリーファは、静かに頷いた。

 そして、ひとり丘を登っていく。

 熱を帯びた砂が、靴の下でかすかに鳴った。

 ——そこに、確かに【天使】(アルフェラツ)はいた。

 白い髪。黒い肌。菫色の瞳。

 その姿は、四年前に見たままのはずだった。けれど、どこか儚く、小さくなったようにも見えた。

(……アルフェラツ……?)

 不意に、【悪魔】(ラース)のことを思い出す。

 【悪魔】(ラース)も姿を変えて現れた。

 サライの前では青年であり、ユースフの前では幼さの残る少年のようだった。

 もしかすると、【天使】(アルフェラツ)もまた——。

 そう思った瞬間、その姿は変わった。

 ハリーファの心臓が強く打つ。

 そこにいたのは、紛れもなくサライだった。

「……サライ、なのか?」

 ハリーファの問いかけに、【天使】は答えないまま、優しく微笑んだ。

 そんな筈はない、サライは過去に死んだ。

 これは、アルフェラツがサライの姿に見えているだけだ。

 それでも、ハリーファは彼女の名を呼ばずにはいられなかった。

 もし本当に【天使】なら、サライの名で呼んでも、きっと慈悲をくれるはずだと。

「サライ……、俺は【エブラの民】を守れたか?」

 しかし、サライは口を閉ざしたまま、何も答えてくれない。

「鍵は? あれで良かったのか? ルブナンの生き残りに返した。あれで【エブラの民】の呪いは解けたのか?」

 懇願するように問う。

 けれど、サライの声で返ってきたのは——冷たい言葉だった。

『——お前は、過去の記憶に囚われて、解脱出来ない愚かな子——』

「許してくれ、サライ……」

 その名を、祈るように呼ぶ。

 だが、【天使】の菫色の瞳は何の感情も宿さない。

『私は、罰することも、許すこともない。お前の罪は、お前自身が作ったものだ。

 お前が、ユースフの罪を清算することはできない。お前にできることは、それを、手放すことだけ』

 その言葉が、胸に刺さった。

 ハリーファは膝をつき、砂を掴む。

 指の隙間からこぼれる砂は、まるで自分の過去のようだった。

『お前は、ユースフではない』

 その一言が、何かを砕いた。

(……俺は、ユースフじゃない?)

 それはただの言葉のはずだった。

 けれど、鎖が解かれるように、胸の奥が軽くなっていく。

 ——俺は、(ハリーファ)であっていいのだろうか?

『あなたは、ユースフじゃないんだよ、()()

 その話し方は、サライそのものだった。

 その表情も、まなざしも、あの日のままだった。

 そうだ。

 サライは、最初から知っていた。

 過去を手放し、新しい自分として生きる道を。

「……ジェード……」

 思わず、彼女の名が唇からこぼれる。

 ——心の自由は誰にも奪えないわ。

 人の心は皆自由なのだと言っていたジェードの言葉。

 今ならわかる。

 自分は、ジェードの心の声を通して、サライの想いを聞いていたのだ。

『あの子は、お前を選んだ。過去の因縁からではなく、ただお前を救うために』

 それが、答えだった。




「ジェードは、あそこまで行ける?」

 ファティマが丘の上を指差した。

「ハリーファが泣いているの。でも、わたくしは行ってあげられない」

「うん、……行ってくるわ」

 ジェードは震えながら、砂の上に足を踏み出した。

 ジェードも【天使】と対峙することを恐れていた。

 だが——今、ハリーファがそこにいる。

 ファティマの言うように、本当に泣いているなら、ハリーファを放っておくことはできなかった。

 ハリーファの為なら、恐れを忘れられる。

 それだけで、足を前に進める理由になった。




 ジェードの足音は、砂の上でわずかにかすれるだけだった。

 風がその音を攫い、陽炎のように消していく。

 彼女が近づいても、ハリーファは顔を上げなかった。

 それでも、彼女の気配が、そっと彼の背中を包む。

「……ハリ?」

 ジェードがそう呼んだだけで、胸の奥に何かが滲んだ。

(……俺のことを『ハリ』と呼ぶのは、ジェードだけだ)

 ハリーファは、静かに目を閉じた。

 ハリーファの瞼の裏に、アルフェラツの姿が過る。

 でも、もう恐れはなかった。

 サライは全てを捨て、別人になったのだ。

(……そうか。サライは……)

 銀の砂が、風に舞う。

 その粒の一つ一つが、祈りのように空へ舞い上がっていく。

 ジェードは、そっとハリーファの隣に膝をついた。

 ただ静かに隣に座る。

「どうして、泣いてるの?」

 ジェードの問いかけに、ハリーファはぽつりと呟いた。

「……【天使】(アルフェラツ)が、俺に言ったんだ。お前は、ユースフじゃない、って」

「……誰のこと?」

 不思議そうに首を傾げる。

「あなたは……ハリでしょ?」

 ジェードは、ほんの少しだけ、彼に体を寄せた。 

 乾いた風が、二人の髪を揺らしていく。

 遠くで、ファティマの姿が陽炎に滲む。

 ——聖地オス・ローは、まだ静かだった。

 けれど、その静けさは、絶望ではない。

 まるで新たな何かを待つように、沈黙を守っていた。

 そして、その沈黙の中で——。

 ハリーファは、自分(ハリーファ)であることを、ようやく受け入れた。


 気がつくと、そこには【天使】(アルフェラツ)はいなかった。

 だが、熱い風が吹くたびに、銀の砂の粒が宙に舞い、どこかから誰かの視線を感じるような気がした。



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