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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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70.二つの密命

 静かな昼下がりだった。

 ラシーディア宮廷の一室には、香木を焚いた心地よい薫りが満ちている。窓から差し込む強い陽光が、白い大理石の床に鮮やかな影を作り出していた。

 同じ宮廷のはずなのに、主が変わるとこうも雰囲気が変わるのかと、ハリーファは不思議に思う。


 ソルは、向かいに座るハリーファとジェードに視線を向けた。

「お前たち、二人とも、オレの頼みは断れねぇよな」

 言いながら、机の上に一通の羊皮紙を広げる。

 ジェードは姿勢を正し、手を膝の上に添えた。

「お前たちがヴァロニアへ向かう理由は、表向きは『第二皇子とヴァロニア人の追放』なんだが、オレが受けたこの二つの依頼を終わらせてほしいんだ」

 ハリーファがソファに深く腰掛け、腕を組んだまま鋭い目を向ける。

「二つ?」

 机の上に紙は一通しかない。

「まず、一つ目は、お前の家族からだと思う」

 ソルに指をさされ、ジェードの瞳がわずかに揺れる。

「わたしの、家族から……?」

 ジェードの声がかすれた。

「ああ。ジェード・ダークを探してくれと頼まれた。それが26年の二月だ」

 やっぱりそうだったかと、ハリーファは眉をひそめた。

「『曲毛の黒髪、右手の人差し指に傷有り。十四歳のジェード・ダークの所在を確認ること』——それが、その時の依頼だ。国に帰せとは言われてない」

「人差し指の傷……って、これは、ここに来てからした怪我よ?」

 ジェードは傷痕を眺めて考える。

 ソルは淡々と続けた。

「誰が依頼を出したのかは不明だが、オレの調べだと、依頼人はへーンブルクの領主だ。つまり、お前の家族の誰かが、お前を探すよう領主に依頼したんじゃねぇか?」

「それなら、ホープだわ!」

「弟?」

「ええ。わたしが指に怪我したのを知っているのは、ホープだけよ」

(わたし、追い出されたのに。……戻ってもいいの?)

 ジェードの指先がわずかに震える。膝の上に置いた手を握りしめ、気づかれないように深く息を吐いた。

(……家族に会いたい)

 ハリーファにだけはジェードの複雑な想いが聞こえた。

 次に、ソルはもう一通の羊皮紙を広げ、指先でヴァロア家の紋章をなぞった。

「そして、もう一つの依頼がこっちだ」

 ハリーファはじっとその印章を見つめた。

「ヴァロア家の印章だな」

 ハリーファの呟きに、ジェードも困惑した様子で視線を落とした。

「ヴァロア家って、王家?」

 ソルは冷笑しながら肩をすくめる。

「いや、厳密には違う。これは『ヴァロア家の名を使った依頼』だ」

 羊皮紙を軽く持ち上げ、光に透かしてみせる。

「多分、この依頼を出したのは、ヴァロニア王ギリアンの姉、リナリーだ」

「シーランドの王妃、いや、元王妃か?」

 ハリーファが椅子の肘掛けに身を預け、険しい表情でつぶやいた。

(……誰? どういうことなの?)

 誰の事なのかわからず、ジェードは戸惑いを隠せない。

「どうしてシーランドの人が、わたしを探すの?」

「それが問題だ」

 ソルは無造作に羊皮紙を机の上に置いた。

「ヴァロア家の正式な印章が押されているが、これは王家としての正式な命令ではない。恐らく、個人的な目的で出された依頼だ」

 ジェードは緊張しながら尋ねた。

「その依頼の内容は……?」

「『ジェード・ダークを生きたまま確保すること』。しかも、こっちは身代金まで出すと言ってきた」

 部屋の中が沈黙に包まれた。

「生きたまま……って」

 ジェードは何か冷たいものが背筋を走るのを感じた。

「まぁ、リナリーがジェードを欲しがる理由なんざ、俺には関係ねぇけどな。……ただ、こうも『生きたまま』って条件を強調するのは妙な話だ」

「どうして、私を?」

 ジェードが困惑する中、ソルは軽く肩をすくめた。

「お前、知らなかったのか?」

「……何を?」

「お前には『魔女疑惑』がかけられてんだよ」

 ジェードは息を飲んだ。

「『魔女疑惑』……?」

「だからヴァロニアから逃げてきたんじゃないのか? 誘いかけても、戻りたくなさそうだったしな」

 ソルは事もなげに言い放った。

 ジェードは震える指先で膝を握りしめた。

 ——だから、パパとママは私を聖地へ送ったのね……。

「ヴァロニアではずっと、お前が魔女だという噂が流れていた。まぁ、今はギリアンが魔女王になったから、魔女疑惑なんて問題ないだろうけどな」

 ギリアンが魔女王になった今、ヴァロニアでの魔女問題は一応解決している。

 しかし、ソルは皮肉げに微笑んだ。

「今はどうか知らねぇけど、リナリーかシーランドにとって、二年前のお前には何か利用価値があったってことだ。他にも何か隠してんじゃねぇのか?」

「いや、ジェードはただの羊飼いだぞ」

「もしかして……」

 ジェードは小さく声を震わせた。

 ルースが領主と関わってしまったことだろうか。

 ジェードは不安を感じ、ゆっくりと首を横に振った。

「それでだ。オレは、お前たちを送り出す前に、両方の勢力に連絡するつもりだ。頼まれていた魔女(ウィッチ)を送り返すって。へーンブルク領主と、リナリー側の両方にな」

 ジェードの顔色がわずかに青ざめた。

「……気をつけろよ」

 ソルは静かに言った。

「リナリー側は、ジェードを捕まえに来ると思うぜ」

 これは、ハリーファにとっても、ジェードにとっても、断ることはできないソルの頼みだ。

「まぁ、本音を言うとだな。ジェードには、先にヘーンブルグ領主のところに行ってほしい。そのまま保護してもらうといい。ヘーンブルグ領主は魔女王の剣となっているし、リナリーはジェードを取り返そうとして、ギリアンとさらに争うことになるだろ」

 ハリーファは、ソルの目論見に気が付いて息を吐いた。

「オレが気にしてるのは、聖地復興の邪魔が入らねぇことだけだ。ヴァロニアの姉弟が内輪で争ってくれりゃ、こっちは楽なんだよ」

「要するに、お前の都合の良いように動けってことだな」

「オレが貸した分を返すには十分だと思うぜ」

 ソルはあざとい笑顔をハリーファに向けた。




 ラシーディアの朝はまだ静かだった。

 爽やかな風が吹き抜け、遠くで水を汲む音や馬の嘶きが聞こえる。

 ハリーファとジェードは、ヴァロニアへ向かうことを決めた。

 ファティマも一緒に行くことになり、三人は馬を整えながら、最後の準備をしていた。

 そんな中、ジェードはあちこちを見回した。

「……アサド、どこに行っちゃったのかしら」

 ジェードがつぶやくと、ハリーファが手綱を引きながら顔を上げた。

「大切にしていたんだな」

 ハリーファがプレゼントしてくれた黒猫だ。まだまだ一緒に居れると思っていたのに。

 それに、アサドはあの日のジェードの気持ちと、ハリーファからもらったキスの証人(証猫?)でもあった。

 しかし、革命の夜、混乱の中で姿を消してしまった。

「一緒に連れて行きたかったんだけど……あの時、外に逃げちゃったのかもしれないわ」

 遠くを見るジェードの瞳に涙がじわりと浮かんだ。

 猫は自由な生き物だ。どこか別の場所で生きているのかもしれない。

 その時、そばにいたソルが、退屈そうに腰掛けながら口を開いた。

「なんだ、猫の話か」

 ジェードはソルの存在に気づいていなかったのか、少し驚いたように振り向く。

「そいつ、黒いやつだろ。よくオレにもにまとわりついてきてたぜ」

 ソルは懐から小さな干し肉を取り出し、指先で転がした。

「もし見つけたら、餌をあげてほしいの」

 ジェードの頼みに、ソルは乾いた笑いを漏らした。

「ははっ、猫探しの依頼か」

 そう言いながらも、彼は干し肉を軽く放り投げ、手のひらで受け止めた。

「……まあ、今回は無償(ただ)で受けてやるよ」

 いつも軽口を叩くソルが、意外にもあっさりと引き受ける。その気のなさそうな態度に反し、ソルが本当に探してくれるのではないかという安心感が、ジェードの胸に灯る。

 ファティマが静かに馬を引いて近づいてくる。

 ジェードは最後にもう一度宮廷を見回した。

 そこにアサドの影はない。

 けれど、どこかで生きているのなら、それでいい。

「……また、会えるかしら」

「何が?」とハリーファが聞き返す。

「アサドに」

 ジェードは馬に跨がり、深く息を吸った。

 それでも、どこかでアサドが生きているのなら——それだけで、少しだけ安心できる気がした。

 風が吹き、三人はヴァロニアに向かう為、ラシーディアの宮廷を後にした。

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