70.二つの密命
静かな昼下がりだった。
ラシーディア宮廷の一室には、香木を焚いた心地よい薫りが満ちている。窓から差し込む強い陽光が、白い大理石の床に鮮やかな影を作り出していた。
同じ宮廷のはずなのに、主が変わるとこうも雰囲気が変わるのかと、ハリーファは不思議に思う。
ソルは、向かいに座るハリーファとジェードに視線を向けた。
「お前たち、二人とも、オレの頼みは断れねぇよな」
言いながら、机の上に一通の羊皮紙を広げる。
ジェードは姿勢を正し、手を膝の上に添えた。
「お前たちがヴァロニアへ向かう理由は、表向きは『第二皇子とヴァロニア人の追放』なんだが、オレが受けたこの二つの依頼を終わらせてほしいんだ」
ハリーファがソファに深く腰掛け、腕を組んだまま鋭い目を向ける。
「二つ?」
机の上に紙は一通しかない。
「まず、一つ目は、お前の家族からだと思う」
ソルに指をさされ、ジェードの瞳がわずかに揺れる。
「わたしの、家族から……?」
ジェードの声がかすれた。
「ああ。ジェード・ダークを探してくれと頼まれた。それが26年の二月だ」
やっぱりそうだったかと、ハリーファは眉をひそめた。
「『曲毛の黒髪、右手の人差し指に傷有り。十四歳のジェード・ダークの所在を確認ること』——それが、その時の依頼だ。国に帰せとは言われてない」
「人差し指の傷……って、これは、ここに来てからした怪我よ?」
ジェードは傷痕を眺めて考える。
ソルは淡々と続けた。
「誰が依頼を出したのかは不明だが、オレの調べだと、依頼人はへーンブルクの領主だ。つまり、お前の家族の誰かが、お前を探すよう領主に依頼したんじゃねぇか?」
「それなら、ホープだわ!」
「弟?」
「ええ。わたしが指に怪我したのを知っているのは、ホープだけよ」
(わたし、追い出されたのに。……戻ってもいいの?)
ジェードの指先がわずかに震える。膝の上に置いた手を握りしめ、気づかれないように深く息を吐いた。
(……家族に会いたい)
ハリーファにだけはジェードの複雑な想いが聞こえた。
次に、ソルはもう一通の羊皮紙を広げ、指先でヴァロア家の紋章をなぞった。
「そして、もう一つの依頼がこっちだ」
ハリーファはじっとその印章を見つめた。
「ヴァロア家の印章だな」
ハリーファの呟きに、ジェードも困惑した様子で視線を落とした。
「ヴァロア家って、王家?」
ソルは冷笑しながら肩をすくめる。
「いや、厳密には違う。これは『ヴァロア家の名を使った依頼』だ」
羊皮紙を軽く持ち上げ、光に透かしてみせる。
「多分、この依頼を出したのは、ヴァロニア王ギリアンの姉、リナリーだ」
「シーランドの王妃、いや、元王妃か?」
ハリーファが椅子の肘掛けに身を預け、険しい表情でつぶやいた。
(……誰? どういうことなの?)
誰の事なのかわからず、ジェードは戸惑いを隠せない。
「どうしてシーランドの人が、わたしを探すの?」
「それが問題だ」
ソルは無造作に羊皮紙を机の上に置いた。
「ヴァロア家の正式な印章が押されているが、これは王家としての正式な命令ではない。恐らく、個人的な目的で出された依頼だ」
ジェードは緊張しながら尋ねた。
「その依頼の内容は……?」
「『ジェード・ダークを生きたまま確保すること』。しかも、こっちは身代金まで出すと言ってきた」
部屋の中が沈黙に包まれた。
「生きたまま……って」
ジェードは何か冷たいものが背筋を走るのを感じた。
「まぁ、リナリーがジェードを欲しがる理由なんざ、俺には関係ねぇけどな。……ただ、こうも『生きたまま』って条件を強調するのは妙な話だ」
「どうして、私を?」
ジェードが困惑する中、ソルは軽く肩をすくめた。
「お前、知らなかったのか?」
「……何を?」
「お前には『魔女疑惑』がかけられてんだよ」
ジェードは息を飲んだ。
「『魔女疑惑』……?」
「だからヴァロニアから逃げてきたんじゃないのか? 誘いかけても、戻りたくなさそうだったしな」
ソルは事もなげに言い放った。
ジェードは震える指先で膝を握りしめた。
——だから、パパとママは私を聖地へ送ったのね……。
「ヴァロニアではずっと、お前が魔女だという噂が流れていた。まぁ、今はギリアンが魔女王になったから、魔女疑惑なんて問題ないだろうけどな」
ギリアンが魔女王になった今、ヴァロニアでの魔女問題は一応解決している。
しかし、ソルは皮肉げに微笑んだ。
「今はどうか知らねぇけど、リナリーかシーランドにとって、二年前のお前には何か利用価値があったってことだ。他にも何か隠してんじゃねぇのか?」
「いや、ジェードはただの羊飼いだぞ」
「もしかして……」
ジェードは小さく声を震わせた。
ルースが領主と関わってしまったことだろうか。
ジェードは不安を感じ、ゆっくりと首を横に振った。
「それでだ。オレは、お前たちを送り出す前に、両方の勢力に連絡するつもりだ。頼まれていた魔女を送り返すって。へーンブルク領主と、リナリー側の両方にな」
ジェードの顔色がわずかに青ざめた。
「……気をつけろよ」
ソルは静かに言った。
「リナリー側は、ジェードを捕まえに来ると思うぜ」
これは、ハリーファにとっても、ジェードにとっても、断ることはできないソルの頼みだ。
「まぁ、本音を言うとだな。ジェードには、先にヘーンブルグ領主のところに行ってほしい。そのまま保護してもらうといい。ヘーンブルグ領主は魔女王の剣となっているし、リナリーはジェードを取り返そうとして、ギリアンとさらに争うことになるだろ」
ハリーファは、ソルの目論見に気が付いて息を吐いた。
「オレが気にしてるのは、聖地復興の邪魔が入らねぇことだけだ。ヴァロニアの姉弟が内輪で争ってくれりゃ、こっちは楽なんだよ」
「要するに、お前の都合の良いように動けってことだな」
「オレが貸した分を返すには十分だと思うぜ」
ソルはあざとい笑顔をハリーファに向けた。
ラシーディアの朝はまだ静かだった。
爽やかな風が吹き抜け、遠くで水を汲む音や馬の嘶きが聞こえる。
ハリーファとジェードは、ヴァロニアへ向かうことを決めた。
ファティマも一緒に行くことになり、三人は馬を整えながら、最後の準備をしていた。
そんな中、ジェードはあちこちを見回した。
「……アサド、どこに行っちゃったのかしら」
ジェードがつぶやくと、ハリーファが手綱を引きながら顔を上げた。
「大切にしていたんだな」
ハリーファがプレゼントしてくれた黒猫だ。まだまだ一緒に居れると思っていたのに。
それに、アサドはあの日のジェードの気持ちと、ハリーファからもらったキスの証人(証猫?)でもあった。
しかし、革命の夜、混乱の中で姿を消してしまった。
「一緒に連れて行きたかったんだけど……あの時、外に逃げちゃったのかもしれないわ」
遠くを見るジェードの瞳に涙がじわりと浮かんだ。
猫は自由な生き物だ。どこか別の場所で生きているのかもしれない。
その時、そばにいたソルが、退屈そうに腰掛けながら口を開いた。
「なんだ、猫の話か」
ジェードはソルの存在に気づいていなかったのか、少し驚いたように振り向く。
「そいつ、黒いやつだろ。よくオレにもにまとわりついてきてたぜ」
ソルは懐から小さな干し肉を取り出し、指先で転がした。
「もし見つけたら、餌をあげてほしいの」
ジェードの頼みに、ソルは乾いた笑いを漏らした。
「ははっ、猫探しの依頼か」
そう言いながらも、彼は干し肉を軽く放り投げ、手のひらで受け止めた。
「……まあ、今回は無償で受けてやるよ」
いつも軽口を叩くソルが、意外にもあっさりと引き受ける。その気のなさそうな態度に反し、ソルが本当に探してくれるのではないかという安心感が、ジェードの胸に灯る。
ファティマが静かに馬を引いて近づいてくる。
ジェードは最後にもう一度宮廷を見回した。
そこにアサドの影はない。
けれど、どこかで生きているのなら、それでいい。
「……また、会えるかしら」
「何が?」とハリーファが聞き返す。
「アサドに」
ジェードは馬に跨がり、深く息を吸った。
それでも、どこかでアサドが生きているのなら——それだけで、少しだけ安心できる気がした。
風が吹き、三人はヴァロニアに向かう為、ラシーディアの宮廷を後にした。