69-2
ヴィンセントは、夜の王都に身を潜めていた。
冷たい秋の風が吹き抜ける街路に、灯火がちらほら揺れている。
ルースが捕まったという報せが届いたのは、二週間前のことだった。
彼女はアレー村へ里帰りをすると言い、領主の館を去った。
それきり、戻らなかった。
魔女裁判の報せを聞いた時、ヴィンセントの中に押し殺していた焦燥が一気に燃え上がった。
ヘーンブルグ領へ流刑となり、領地を離れることすら許されなかった自分にとって、彼女が王都で裁かれているという現実は、何よりも耐え難いものだった。
魔女裁判、と言うことは。
(助け出さねば、ルースは死ぬ)
それだけは、絶対に許せなかった。
王都に到着した彼は、夜の闇に紛れ、昔何度か訪れたことのある王宮へと滑り込む。
そして、慎重に回廊を進み、幼馴染の部屋へ忍び込んだ。
「ヴィンセント……!」
薄暗い部屋の中、寝台の上で身を起こしたギリアンが、目を見開いた。
その口元を指で塞ぐように、ヴィンセントは静かに「しっ」と人差し指を立てた。
「……どうしたんだい? 戻ってきても大丈夫なのかい?」
ギリアンは囁きながら、慎重にヴィンセントを見つめた。
流刑の身である彼がここにいるというだけで、すでに危険だった。
ヴィンセントは単刀直入に切り出した。
「今、ヘーンブルグ領の娘が魔女の疑惑で裁判にかけられている。それを取り下げることは出来ないか? 頼む! ギリアン! 君は王太子だろ!」
ギリアンの顔が曇る。こんな必死なヴィンセントを見たことがなかった。
「……無理だよ、僕には……出来ない」
ギリアンの答えに、ヴィンセントは唇を噛みしめた。
「……【黒】の魔女審問は、もう何日も続いてる。見世物になってるんだ……」
ギリアンは低く呟くように言った。
自分がどうにかできる問題ではない、と言わんばかりに。
ヴィンセントも、黒髪のギリアンには難しいことはわかっていた。
「それに……突然、明日、正午に、火刑が決まったって……」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィンセントの中で何かが弾けた。
頭が真っ白になるほどの怒りがこみ上げる。
ギリアンが怯えたように身を引いた。
「……ヴィンセント?」
だが、ヴィンセントはすでに冷え切った目でギリアンを見ていた。
(明日だと?)
ヴィンセントは強く拳を握り、すぐさま踵を返した。
「待って! どうする気!?」
「自分で行く!」
ヴィンセントは吐き捨てるように言った。
ギリアンは何も言えなかった。
彼の沈黙は、ヴィンセントを助けられないという拒絶の証だった。
ヴィンセントは諦めなかった。
せめて、彼女が逃げられる道を作らなければならない。
夜の闇に紛れ、ルースが囚われている場所に忍び込む。
衛兵の巡回を見極め、異端審問所の地下牢へと辿り着いた。
鍵のかかった鉄格子の向こうに、彼女の姿はあった。
だが、今すぐ助けることはできない。
(ルース!)
そっと息を潜め、牢の隙間から彼女を見つめる。
かすかな月明かりに照らされた横顔。
彼女の黒髪が、闇の中で静かに光を帯びていた。
まるで、すでにこの世の人間ではないかのように――。
(待っていろ)
扉を開けることはできなくとも、まだできることはある。
ヴィンセントは牢を離れ、翌日の火刑に使われる拘束具に向かった。
自分にできることはただひとつ――
燃え盛る炎の中でも、簡単に縄を解いて逃げられるようにすること。
持ち込んだ短剣で細工を施す。普段なら絶対にほどけないはずの縄を、引けば一瞬で解けるように。
その手元が、かすかに震える。
(生きろ)
いつもは天使を信じない自分が、初めて天使に祈りを捧げた。
(頼む。生き延びろ)
細工を終えた縄を見つめ、ヴィンセントは目を閉じた。
これが、自分にできる唯一の助けだった。
明日、ルースが生きる道を選んでくれることを信じて。
* * * * *
1421年10月31日――。
火刑は執行された。
燃え上がる炎とともに、空が異常に暗くなった。
昼間のはずの空が、一瞬にして夜のように沈む。
黒い雲が不気味に渦を巻き、光はすべてその奥へと吸い込まれていった。
燃え盛る火刑台の上、ルースにはもう何も見えなかった。
ただ、目の前にいる男の姿だけが、はっきりと映っている。
男の金色の髪が、炎の輝きに照らされ、まるで黄金の糸のように揺れる。
翠色の瞳は深淵を覗き込むような冷たさを宿し、彼女を見下ろしていた。
ルースの前に、【悪魔】が立っていた。
『お前は、何を望む?』
静かに囁く声が、彼女の鼓膜を揺らす。
まるで、ずっと前から知っていた声のように、どこか馴染み深かった。
ルースの瞳が一瞬、大きく揺れた。
燃え盛る炎の中で彼女はまだ生きているのか、それともすでに死んだのか――それすら分からなかった。
「……あなたは……、悪魔なのね……」
ルースは、ゆっくりとその姿を見つめる。
それは、ヴィンセントに似た姿だった。
いや――似せているのかもしれない。
『確かに、そう呼ぶ人もいる』
ラースは微かに微笑んだ。
ルースは、自分が死んだことを悟った。
それなのに、不思議と穏やかな気持ちだった。
痛みも、苦しみも、怒りもない。
「……悪魔様、あなたは、わたしの欲望を映して、閣下の姿をしているの?」
ルースの声は、落ち着いていた。
ラースは答えずに首を傾げる。
その仕草が、まるでヴィンセントの癖のようで、ルースは苦笑した。
でも、違う。
「……でも、瞳の色は間違ってるわ」
ルースはラースを見つめたまま、そっと首を振る。
「閣下の瞳の色は、翠ではなくて、海のような蒼よ」
『君が望むなら、その男に最後に会わせてあげることもできるよ』
――ルースは、ゆっくりと首を横に振った。
『だけど、蘇らせることだけは出来ない。僕はアルフェラツじゃないから』
「知ってるわ。天使様の名前はアルフェラツ様と言うのね」
ルースは静かに微笑んだ。ジェードが生まれた時の、あの方の名前を知れた。
『じゃあ、何を望む? さっき言ってた、国をいくつか滅ぼす? それとも世界を変える?』
【悪魔】に願わなくとも、世界はヴィンセントが変えてくれるだろう。
ルースは一瞬、迷うように目を伏せる。
彼女には、世界を憎む理由はあった。
この裁判、この火刑、この理不尽な運命。
だが、それ以上に大切なものがあった。
「……妹がいるの」
ルースはまっすぐ【悪魔】を見た。
「わたしが死んだことを、自分のせいだと思うかもしれない。それに、わたしの代わりに、危険な目に合うかもしれない」
ルースの声は震えていなかった。
「だから、ジェードを守って」
『……ふむ』
「そして、最後は必ず幸せになるように……」
ラースは目を細める。
『いいよ。君の二つの魂と引き換えに――』
次の瞬間、黒い影が広がる。
火刑台の炎は異様な勢いで燃え上がり、ルースの体はその中で完全に消えた。