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天国の扉  作者: 藤井 紫
断章
170/193

69-2

 ヴィンセントは、夜の王都に身を潜めていた。

 冷たい秋の風が吹き抜ける街路に、灯火がちらほら揺れている。

 ルースが捕まったという報せが届いたのは、二週間前のことだった。

 彼女はアレー村へ里帰りをすると言い、領主の館を去った。

 それきり、戻らなかった。

 魔女裁判の報せを聞いた時、ヴィンセントの中に押し殺していた焦燥が一気に燃え上がった。

 ヘーンブルグ領へ流刑となり、領地を離れることすら許されなかった自分にとって、彼女が王都で裁かれているという現実は、何よりも耐え難いものだった。

 魔女裁判、と言うことは。

(助け出さねば、ルースは死ぬ)

 それだけは、絶対に許せなかった。

 王都に到着した彼は、夜の闇に紛れ、昔何度か訪れたことのある王宮へと滑り込む。

 そして、慎重に回廊を進み、幼馴染の部屋へ忍び込んだ。

「ヴィンセント……!」

 薄暗い部屋の中、寝台の上で身を起こしたギリアンが、目を見開いた。

 その口元を指で塞ぐように、ヴィンセントは静かに「しっ」と人差し指を立てた。

「……どうしたんだい? 戻ってきても大丈夫なのかい?」

 ギリアンは囁きながら、慎重にヴィンセントを見つめた。

 流刑の身である彼がここにいるというだけで、すでに危険だった。

 ヴィンセントは単刀直入に切り出した。

「今、ヘーンブルグ領の娘が魔女の疑惑で裁判にかけられている。それを取り下げることは出来ないか? 頼む! ギリアン! 君は王太子だろ!」

 ギリアンの顔が曇る。こんな必死なヴィンセントを見たことがなかった。

「……無理だよ、僕には……出来ない」

 ギリアンの答えに、ヴィンセントは唇を噛みしめた。

「……【黒】の魔女審問は、もう何日も続いてる。見世物になってるんだ……」

 ギリアンは低く呟くように言った。

 自分がどうにかできる問題ではない、と言わんばかりに。

 ヴィンセントも、黒髪のギリアンには難しいことはわかっていた。

「それに……突然、明日、正午に、火刑が決まったって……」

 その言葉を聞いた瞬間、ヴィンセントの中で何かが弾けた。

 頭が真っ白になるほどの怒りがこみ上げる。

 ギリアンが怯えたように身を引いた。

「……ヴィンセント?」

 だが、ヴィンセントはすでに冷え切った目でギリアンを見ていた。

(明日だと?)

 ヴィンセントは強く拳を握り、すぐさま踵を返した。

「待って! どうする気!?」

「自分で行く!」

 ヴィンセントは吐き捨てるように言った。

 ギリアンは何も言えなかった。

 彼の沈黙は、ヴィンセントを助けられないという拒絶の証だった。

 ヴィンセントは諦めなかった。

 せめて、彼女が逃げられる道を作らなければならない。

 夜の闇に紛れ、ルースが囚われている場所に忍び込む。

 衛兵の巡回を見極め、異端審問所の地下牢へと辿り着いた。

 鍵のかかった鉄格子の向こうに、彼女の姿はあった。

 だが、今すぐ助けることはできない。

(ルース!)

 そっと息を潜め、牢の隙間から彼女を見つめる。

 かすかな月明かりに照らされた横顔。

 彼女の黒髪が、闇の中で静かに光を帯びていた。

 まるで、すでにこの世の人間ではないかのように――。

(待っていろ)

 扉を開けることはできなくとも、まだできることはある。

 ヴィンセントは牢を離れ、翌日の火刑に使われる拘束具に向かった。

 自分にできることはただひとつ――

 燃え盛る炎の中でも、簡単に縄を解いて逃げられるようにすること。

 持ち込んだ短剣で細工を施す。普段なら絶対にほどけないはずの縄を、引けば一瞬で解けるように。

 その手元が、かすかに震える。

(生きろ)

 いつもは天使(クライス)を信じない自分が、初めて天使(クライス)に祈りを捧げた。

(頼む。生き延びろ)

 細工を終えた縄を見つめ、ヴィンセントは目を閉じた。

 これが、自分にできる唯一の助けだった。

 明日、ルースが生きる道を選んでくれることを信じて。




*   *   *   *   *




 1421年10月31日――。


 火刑は執行された。

 燃え上がる炎とともに、空が異常に暗くなった。

 昼間のはずの空が、一瞬にして夜のように沈む。

 黒い雲が不気味に渦を巻き、光はすべてその奥へと吸い込まれていった。

 燃え盛る火刑台の上、ルースにはもう何も見えなかった。

 ただ、目の前にいる男の姿だけが、はっきりと映っている。

 男の金色の髪が、炎の輝きに照らされ、まるで黄金の糸のように揺れる。

 翠色の瞳は深淵を覗き込むような冷たさを宿し、彼女を見下ろしていた。

 ルースの前に、【悪魔】(ラース)が立っていた。 

『お前は、何を望む?』

 静かに囁く声が、彼女の鼓膜を揺らす。

 まるで、ずっと前から知っていた声のように、どこか馴染み深かった。

 ルースの瞳が一瞬、大きく揺れた。

 燃え盛る炎の中で彼女はまだ生きているのか、それともすでに死んだのか――それすら分からなかった。

「……あなたは……、悪魔なのね……」

 ルースは、ゆっくりとその姿を見つめる。

 それは、ヴィンセントに似た姿だった。

 いや――似せているのかもしれない。

『確かに、そう呼ぶ人もいる』

 ラースは微かに微笑んだ。

 ルースは、自分が死んだことを悟った。

 それなのに、不思議と穏やかな気持ちだった。

 痛みも、苦しみも、怒りもない。

「……悪魔様、あなたは、わたしの欲望を映して、閣下の姿をしているの?」

 ルースの声は、落ち着いていた。

 ラースは答えずに首を傾げる。

 その仕草が、まるでヴィンセントの癖のようで、ルースは苦笑した。

 でも、違う。

「……でも、瞳の色は間違ってるわ」

 ルースはラースを見つめたまま、そっと首を振る。

「閣下の瞳の色は、翠ではなくて、海のような蒼よ」

『君が望むなら、その男に最後に会わせてあげることもできるよ』

 ――ルースは、ゆっくりと首を横に振った。

『だけど、蘇らせることだけは出来ない。僕はアルフェラツじゃないから』

「知ってるわ。天使様の名前はアルフェラツ様と言うのね」

 ルースは静かに微笑んだ。ジェードが生まれた時の、あの方の名前を知れた。

『じゃあ、何を望む? さっき言ってた、国をいくつか滅ぼす? それとも世界を変える?』

 【悪魔】に願わなくとも、世界はヴィンセントが変えてくれるだろう。

 ルースは一瞬、迷うように目を伏せる。 

 彼女には、世界を憎む理由はあった。

 この裁判、この火刑、この理不尽な運命。

 だが、それ以上に大切なものがあった。

「……妹がいるの」

 ルースはまっすぐ【悪魔】(ラース)を見た。

「わたしが死んだことを、自分のせいだと思うかもしれない。それに、わたしの代わりに、危険な目に合うかもしれない」

 ルースの声は震えていなかった。 

「だから、ジェードを守って」

『……ふむ』

「そして、最後は必ず幸せになるように……」

 ラースは目を細める。

『いいよ。君の()()()()と引き換えに――』

 次の瞬間、黒い影が広がる。

 火刑台の炎は異様な勢いで燃え上がり、ルースの体はその中で完全に消えた。


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