7-2
モリスで奴隷というのは、簡単に言えばお抱えの使用人のようなものだ。報酬のかわりに、自分の主人から衣食住のすべてを死ぬまで与えられる。奴隷身分から解放される場合、以降の生活に十分なほどの金品を与えられ自由を得ることができる。解放された者は、自由人となり、奴隷を持つことを許されるようになる。
ジェードは顔を手でおおって泣きだした。その様子にリューシャはため息をもらした。
「あなたは不法侵入の罪で罰せられるところを、宰相様が恩情でお許し下さったのです。ヴァロニアが身代金を出すと言うならば、身柄は引き渡されますけど」
それを聞いて、ジェードは顔をおおったまま頭を横にふった。
「わたしみたいなただの羊飼いに、国がお金を出すわけないわ……」
「では、主人に潔く奉仕することね。奴隷から解放されて自由人になれば、国に帰ることもできるかもしれませんよ」
「奉仕って……何をすればいいの?」
「最初は主人が直接指示します。そしていずれは主人の意思を汲み取って働けるように。今ハリーファ様はお怪我をされているので、食事や着替えのお世話になるでしょう」
ハリーファの怪我、それはジェードの短剣を奪ったときの顔の怪我のことだろうか。
あの時、ハリーファの姿に見惚れていないで、さっさとハリーファを殺せていれば、こんなことにはならなかっただろう。天命を果たして、ヴァロニアへ帰っていたのかもしれない。
【天使】の言う通りなら、ジェードがヴァロニアに帰るためには天命を全うしなければならない。
(奴隷としてあの子に近づけば、あの子を殺すチャンスがくるかしら……)
結局、そうする以外に道のないジェードは、ハリーファの奴隷となることを受け入れるしかなかった。
沐浴後、リューシャはジェードに飾り気のない簡素な服を着させた。
麻色の生地で出来た半袖の服だった。初めて着た半袖の服がとても心もとなく、ジェードは寒くもないのに腕を組むようにしてひじをさすった。
「これは着けておいてもいいわ」
リューシャはジェードが身に着けていたものの中から、聖十字の銀のペンダントを取り出した。
「モリスには、多くの人種と多くの信仰が混在しています。ジェード、あなたが自分の信仰を曲げることはないわ」
そう言うとリューシャはクライスの聖十字のペンダントを手に取り、ジェードの首にかけてくれた。
「ファールークはモリス信仰なんでしょ? 改宗させないの?」
「改宗? 同じ天使信仰なのに?」
「同じ……?」
異教徒なのに……?
ジェードにはリューシャの言っている意味が、この時は理解できなかった。
* * * * *
ハリーファが聖地から戻って五日目のこと。
夕刻、【王の間】の鍵がガチャリと音を立てて外された。
二人の女が連れ立って中に入っていく。
「ハリーファ様、ジェードをお連れしました」
リューシャが、ヴァロニア人の少女ジェードを連れて【王の間】にやって来た。
部屋の真ん中にあるテーブルには書物が数冊積まれている。ハリーファは椅子に座って、その書物を手に取りながめていた。
ハリーファは自分で杖をついて歩けるようになっていたが、まだ【王の間】から出ることは許されていない。
「さぁ、ジェード。あなたの御主人になられる御方です」
黒髪の異国の少女はリューシャの後ろに隠れるように立っている。
前に出るようにリューシャに背を押されても、ジェードはハリーファの顔を見ようとしない。
「ハリーファ様、これからは何でもこのジェードにおっしゃって下さい。異国の娘なのでわからないことも多いかもしれませんが……」
「乳母上様、ありがとうございます。退屈なので、ちょうど話し相手が欲しいと思っておりました」
ハリーファの言葉にリューシャは少し安心した。何も教えられず籠の鳥のように育ってきたハリーファにとっては、異国の話は興味深いものなのかもしれない。
だが、もしハリーファの失踪にヴァロニアが関わっていたのだとしたら、この少女も加担しているのかもしれない。リューシャは心の中でそっとハリーファに危機感を伝えた。
ハリーファはリューシャにはいつもと変わらない笑顔をみせた。その様子を見てリューシャは少し寂しそうに微笑んで部屋を出ていった。
再び見張りが扉を施錠する音が聞こえ、【王の間】にはハリーファとジェードだけが残された。
リューシャが姿を消した途端、ハリーファの表情から笑みが消えた。翡翠色の瞳で冷ややかな視線をジェードに向ける。突っ立ったまま動かないジェードに短く言い放った。
「座れ」
椅子に座ったままのハリーファは、自分の向かいの長椅子を杖で差した。ジェードはそれに従って、下を向いたままぎこちなく椅子に腰かけた。
「顔を上げろ」
言われたとおりにすると、ハリーファと目があう。ハリーファの右頬には縫合した傷跡があり、赤く腫れて不気味で痛々しい。聖地で会ったときと同じ、飾り気のない白い服を着ている。右手首は三角の布でつられ、左足には添え木が当てられている。一人で歩けないのか、テーブルに杖が立てかけられていた。
「俺には奴隷など必要ない」
真っ先にそう言われ、ジェードの表情に恐怖が浮かんだ。ハリーファはリューシャの前ではとても穏やかだったのに、いなくなったとたんに聖地の時と同じような雰囲気をまとう。
奴隷が必要ないと言うことは、この後自分はどうなってしまうのだろうと手足が震える。やはり、殺されてしまうのだろうか。
ジェードはうつむき、服をつかんで震える自分の手を見つめた。
「お前に聞きたいことがあって、こうするしかなかった。答えによっては、すぐに解放してやる」
ハリーファの言葉に、ジェードは驚いて顔をあげた。
「オス・ローで【エブラの民】と会っていただろう」
「エ……エブラの民?」
聖地でハリーファがアルフェラツに向かって言った言葉だ。【エブラの民】なんて知らない。弟のホープが神学について学んでいたときに、ヴァロニアの信仰するクライス信仰のほかに、エブラ信仰というものもあると言っていたのを思い出した。
(エ、エブラ信仰のことかしら?)
「【エブラの民】を知らないのか? お前がドームで話していた白い髪の黒人だ」
(白い髪って……、アルフェラツ様のこと……? この子、【天使】様を人だと思ってるんだわ)
ジェードは【天使】に告げられた天命を思い出して、どう答えたら良いのか必死で考えた。アルフェラツは天使だということを、少年に伝えて良いものかと思案した。
ハリーファはほんの一瞬表情を変えたが、すぐに表情を戻しジェードの答えを待つ。
「あの人が、その、【エブラの民】なの……? 【エブラの民】って、何?」
「【エブラの民】は聖地に住んでいた、神の末裔と呼ばれる一族だ。お前はそんなことも知らないのか」
「……知らないわ……」
「【エブラの民】とお前は何か話をしたのか?」
ジェードは何と答えていいのかわからなかった。アルフェラツとは話をしたと言って良いのだろうか。天使との対話は祈りに似ている。【天使】の口は一度も動かず、ジェードへの答えは心の中にだけ聞こえたのだから。
そんなことを聞いてくるということは、ハリーファの心に【天使】は何も語りかけなかったのだろうか?
「話をしたのか? していないのか? 答えろ」
ハリーファの口調がきつくなる。
(もしかして……あの話を聞かれてたのかしら?)
ジェードの顔が青ざめた。ジェードの鼓動は早くなり、ハリーファにも見て取れるほどこめかみに汗がにじむ。きっと話したと言えば、内容を問われるだろう。
「は、話はしてないわ。私が、一人で、話してただけ。でも、あの人は何も話さなかった」
他人から見れば嘘ではないはずだが、ジェードはひどく動揺して、髪がしっとりとぬれるほど汗が流れた。
見かねたのか、ハリーファは質問を変えた。
「では、あの【エブラの民】は何処から来た?」
「わ……わたしがあそこに着いた時、先に、あの場所に居たわ……」
「ではあの後、何処へ行ったか知っているか?」
「わ、わからない……」
ジェードはそう言ってうつむいた。あの後……。あの惨劇の後だ。あの時意識を失って、その後のことは、馬車の荷台に死体と一緒に積まれたことや、狭い部屋に閉じ込められたことしか覚えていない。
「ならお前は、何をしにオス・ローに行った?」
「何って……」
村を追い出されて聖地に来たとは言いたくない。
(【天使】様はわたしが聖地に来たのは天命だと言ったわ……、でも……それは言えない……)
「巡礼よ……」
自分の天命について、ハリーファに聞かれるわけにはいかない。
「一人でか?」
ジェードは、リューシャからも同じことを聞かれたのを思い出した。
(本当なのに、一人で来たって言ったら疑われてしまう……)
「……う、馬も、一緒にいたんだけど……」
「一人で巡礼とは、よく無事に聖地まで来れたものだな」
ハリーファが呆れたように言う。
「調停を犯してまで聖地に来るなんて、お前は何か大きな罪を犯したのか? それとも大きな病でも抱えているのか?」
「い、いいえ……」
「では、何の為の巡礼だ? 神に何を求めている?」
「あ、姉の罪を赦してもらいに……」
ジェードは父親が言った嘘で答えた。顔を上げハリーファを見ると、ジェードを見ている翠の瞳はひどく冷たい。
「巡礼者は聖地で神に会えると言うが、お前はオス・ローまで来て、望み通り神には会えたのか?」
ハリーファの問いにジェードは黙ってこくりとうなずいた。
「神は、お前に何を告げた?」
(あなたを殺すように言われたなんて……。言える訳ないじゃない……)
ジェードは答えることができず黙ったままだった。
「答えられないなら、解放の話は無しだ」
ハリーファは、悔しそうな顔のジェードに向かって冷たく言い放った。