69.黒髪の魔女
1421年10月30日、ヴァロニア王国 王都ランス――。
『魔女とは、悪魔と肉体関係を持って契約をなし、特別な力と黒髪を手に入れる』
冷たい石造りの法廷に、かすかな足音が響いた。
ヘーンブルグ領の少女、ルース・ダークは両手を縛られ、護衛に付き添われながら、中央の審問台へと導かれた。
広間には異端審問官、魔女裁判を担当する司祭、そして数名の貴族たちが並び、彼女の一挙手一投足を見つめている。
傍聴席には、王都の民たちが毎日入れ代わり立ち代わり押し寄せた。
――【黒】だ
――魔女だ
――【黒】い髪だ
彼らは一様に金髪に青い瞳で、ルースの黒い髪を興味深そうに眺めていた。まるで見世物のように。
審問官は威圧的だが、毎日同じことを繰り返しているだけだ。ルースが何を言っても聞く耳を持とうとしない。
長い裁判だった。
いや、意図的に長引かされている。
本来なら、魔女裁判など一日で決着がつく。
異端審問官が証言を並べ、聖職者が罪を断じ、火刑の宣告を下すだけのこと。
しかし、この裁判はすでに何日も続いている。
(これは、黒髪の誰かを陥れる為の宣伝活動なのかしら……?)
ルースは図書室で見た歴史書を思い出した。ヴォード・フォン・ヴァロアの黒髪が歴史から消されたことと関係があるのだろうか。
きっと、貶めたい貴族に、黒髪の人物でもいるのだろう。
(こんなに毎日『魔女の審問』が繰り返されていたら、その黒髪の人物はさぞ震え上がっていることでしょうね……)
そんな人が王都に居るかはわからないが、その誰かさんに同情した。
審問官が咳払いをし、羊皮紙を手に取る。
「ルース・ダーク、貴様にかけられた罪状を読み上げる」
法廷に、重々しい声が響き渡る。
「貴様は悪魔と契約を交わし、禁忌の術を行使した。その証拠として、貴様の髪は【黒】。魔女の証である。これについて弁明があれば申せ」
また同じことを聞かれる。
昨日も、一昨日も、その前の日も。
裁判は堂々巡りを続け、何の決定も下されないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
――今日こそ決着をつけなければならない。
ルースは静かに顔を上げた。
「……黒髪が魔女の証拠だと?」
裁判官たちが身じろぎする。
「ああ、その通りだ!」
審問官が鼻を鳴らす。
「黒髪は、悪魔と契約した証。この国に生まれつき黒髪の者など存在しない」
ルースは、小さく笑った。
そして、堂々とした口調で言い放つ。
「あなた方は、本当に天使の下で真実を求める方々なのですね?」
静寂が訪れる。
審問官たちは顔を見合わせ、傍聴人も息を呑んだ。
「では、その真実を教えてさしあげます」
ルースは、ゆっくりと審問官たちを見渡した。
その瞳には、恐れも迷いもない。
「西大陸に広がるファールーク皇国をご存知でしょう?」
審問官たちが眉をひそめる。
二百年以上、鎖国を続ける謎の国だ。
「……それが、どうした?」
「ファールーク皇国は、今でこそ鎖国体制をしいていますが、その前身であるウバイド皇国の時代より多民族の国家です。金髪の民、黒髪の民、褐色の民。古くから行商が盛んな土地で、多くの人種が混ざり合い、独自の文化を築いてきました」
「ふん、異教徒の国だな」
「天使信仰が異教徒かどうかはともかく、彼らの血は今も続いています。実は、ヴァロニアの西南端、私の故郷ヘーンブルグ領でも、遠い昔にファールークから行商人が訪れ、彼らと婚姻を結んだ者たちがいました」
審問官たちは無言でルースを見つめた。
「これは歴史にも正しく記録され、領主の館には、領民の婚姻の記録が、全て証拠として残されています」
ルースは続けた。
「つまり、黒髪は悪魔との契約ではなく、先祖から受け継いだ血の証です」
法廷に、ざわめきが走る。
「ならば、なぜ黒髪の者が長年異端とされ、火刑に処されてきたのか?」
審問官の一人が鋭く問い返した。
「それこそ、信仰ではなく、政治の問題ではありませんか?」
ルースは迷わず返す。
完全な沈黙が広がった。
傍聴席の中には、小さく頷く者もいた。
審問官たちは顔を見合わせ、返答に詰まっている。
――いける。
このまま言葉で押し切れば、私は助かる。
ルースは手応えを感じていた。
私が勝つ。これは知識の戦い。
しかし、おかしい。なぜ、こんなにも裁判が長いのだろうか?
本来、魔女裁判は決断が早い。
異端審問官が罪を並べ、裁判官が頷き、即座に火刑が宣告されるのが常だ。
しかし――これは違う。
彼らは、ルースをすぐに処刑しようとしていない。
(時間を稼いでいる? 誰かを待っているの……?)
その時だった。
「ならば、ルース・ダーク」
審問官が口を開く。
「貴様が悪魔の子を孕んだという証言は、どう説明する?」
――心臓が凍りついた。
「……!?」
「証人によれば、貴様は『悪魔』と契約を交わし、すでに『悪魔の子』を宿している。これはどういうことだ?」
ルースは、一瞬、声を失った。
そんな時に、くにゃりと優しい胎動を感じた。
この子は、ヴィンセントの子だ。審問官はヴィンセントのことを『悪魔』と呼んだのだ。
(悪魔の子……?)
まだ、体型から妊娠はわからないはずなのに、誰がそんな証言を?
妊娠のことは妹以外、ヴィンセントにさえ伝えていない。
だが、審問官の目には確信が宿っている。
「どうだ、ルース・ダーク?」
ルースは、今ようやく気が付いた。
――これは、ただの魔女裁判ではない。
――わたしを裁くためのものではない。
ここで、この子をヴィンセントの子だと言えば、ヴィンセントも審問される側になる。
(この裁判は……わたしをわざと生かしていた)
ルースの中で、確信が生まれる。
(わたしが生きている限り、ヴィンセントが王都に来る理由になる)
――だから裁判を長引かせていたのね。
ルースの体が、わずかに怒りで震えた。
これは、ヴィンセントをおびき寄せるための罠だ。
黒髪迫害に気を取られすぎたのは失敗だった。
時間を使いすぎた。もう、自分の魔女裁判の事が、ヴィンセントの耳に届いているかもしれない。
王都に足を踏み入れれば、ヴィンセントは捕らえられ、もう二度と自由にはなれない。
ならば、すぐさま魔女のフリをしなければならない。
ルースは、ゆっくりと顔を上げ、漆黒の瞳が審問官たちを見据える。
審問官たちは、彼女が取り乱すことを期待していたのかもしれない。
しかし――ルースは、笑った。
「……認めましょう」
広間にざわめきが走った。
「わたしが魔女だと言うのなら、そうなのかもしれません」
「この娘は悪魔と契約したと認めたぞ!」
ルースは皮肉げに笑い、傍聴席を見渡した。
「まだお腹も膨れていないのに、どうしてわかったのかしらね。魔女の子は、生まれたらすぐに歩きだすと言うわ。……この子に母の仇を討ってもらうわ」
ルースの挑発的な言葉に、貴族や司祭たちが顔を顰める。
「魔女を即刻火刑に!」
今度こそルースの思惑通りだ。
このまま処刑を早める方向に仕向ける。
(お願い、ヴィンセント。絶対に助けには来ないで)
ルースの心の中の願いを、誰も知ることはなかった。
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