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天国の扉  作者: 藤井 紫
断章
168/193

68.砂上の王と、天使を見た少女

 夜の静寂が書庫を包み込んでいた。

 暖炉の火がパチパチと燃え、壁に映る影がゆらめく。

 冷たい冬の風が窓をかすかに揺らした。

 ――まさか、こんな僻地で、彼女のような女に出会うとは。

 ヴィンセントは書庫の入り口に立ち、椅子に座り込むルースを見下ろしていた。

 彼女は古びた文献を抱え、熱心にページを繰っている。

 いつものことだ。

「また夜更かしか」

 ヴィンセントは呆れたように言いながら、暖炉のそばへ歩を進めた。

 ルースは本から目を離さず、淡々と答える。

「ごめんなさい、閣下。昼間は館の仕事があるので……」

「毎晩、夜通し読んでいては身体を壊すぞ」

「でも、知りたいことがたくさんあるんです」

 ヴィンセントは薄く笑う。

 この国のどこを探しても、領主の館に仕える女が、こんなにも知識を貪欲に求める姿はそうそう見られないだろう。

 ヴィンセントがこの地に左遷されてから半年。

 最初は何の興味も持たなかったが、ルースと交わす会話は退屈を癒すものになっていた。

 燭台の明かりで照らすと、ルースの頭に埃がついていた。

「閣下、わたし、すごいものを見つけました。幽霊のおかげで」

「まだ幽霊の話をしているのか」

「あの一番上の本棚から、紙切れが落ちてきたんです。隙間風なんておかしいと思って見たら、本棚の背板が外れて」

 ルースは立ち上がると、棚の上に置いていた小さな筒状の書物を持ってきた。宝物を見つけたように目を輝かす。

「手紙が隠されていたんです!」

「手紙?」

「そう! しかも二百年前の。ユースフからヴォード王に宛てられたのものです」

 筒の中から、丸められた植物でできた紙をとりだし、そっと広げる。

 ヴィンセントの眉がわずかに動いた。

 ここが流刑地ヘーンブルグでなければ、世紀の大発見だっただろう。

「君はその男に随分とご執心だな」

「だって、この手紙を読むと、想いが伝わってきます。聖地を守るために、こんなにも真摯で、かっこいい王がいたなんて……」

 ルースの瞳は、手紙の文字を追うごとに輝きを増していた。

 その横顔を見つめながら、ヴィンセントは静かに息を吐く。

「英雄の記録は、たいてい美化されているものだ」

「これは記録じゃありません。手紙は言葉そのものです。これはユースフの幽霊だわ。それに、ヴォード王が残した記録にも、ユースフの知略を称賛するものも多いんです。敵として認めた上で、それでも彼の才能を恐れていたように見えますし」

 興奮するルースを、ヴィンセントは無言で見つめた。

 しばらく沈黙した後、ふっと笑う。

「私がユースフと同じ時代に生きていたら、戦ってどちらが勝つか確かめたかったな」

 ルースはヴィンセントの言葉に、少し目を輝かせた。

「きっと、ユースフと戦ったら、閣下が負けると思いますよ」

 ヴィンセントの表情が一瞬だけ動いた。

「何故だ?」

「記録からの分析ですけど、ユースフは戦場での実力は最強です。閣下も剣の腕は確かですが、一騎打ちなら多分、負けます。でも、勝つための手を尽くせば、閣下がなんとか勝てるかも……」

 ヴィンセントは不服そうな顔をルースに向けた。

「もちろん、閣下が、ヴァンデの戦いで悪魔と呼ばれてしまうほどの功績をあげられたのは知ってますよ」

 ルースはヴィンセントの目をまっすぐに見つめ、淡々と続けた。

「でも、ユースフは、戦う前から勝っていた人だと思うんです」

 ヴィンセントは少し考え込むように腕を組んだ。

 ルースは真剣な顔で言った。

「戦場に立つ前から、ユースフは相手の心理や動きを読んでいたはずなので。閣下が剣を抜く前に、どう動くかを知っていたのでは?」

 ヴィンセントは鼻を鳴らした。

「それは私がユースフと戦わなかったから、そう言えるんだろう」

「ええ。でも、もし閣下がユースフと本当に戦っていたら……」

 ルースは微笑みながら、手にしていた手紙を丁寧に巻く。

「きっとユースフは、閣下が戦う前に『降伏しないか?』と声をかけたと思います」

 ヴィンセントは黙り込んだ。

 ヴィンセントの中に、初めて沸き起こる奇妙な感情――悔しさに似た何かがあった。

「なるほど。君の言うことが正しければ、私は戦うまでもなく負けるわけだな」

 ルースは微笑んだまま、頷いた。

「戦場で勝つには、剣の腕だけでは足りません」

 ヴィンセントはルースをじっと見つめる。

「閣下は、頭脳も剣術も天才だと思いますが、閣下に足りないものをユースフは持っていると思うんです」

 この女は、やはりただの女中(メイド)ではない。

 頭の中に広がる知識の海と、それを支える強い意志――まるで砂漠の中にそびえる城のようだった。

 ヴィンセントが腕を組んでぼそりと呟いた。

「納得いかないな」

 ヴィンセントの言葉にルースはクスッと笑った。

「君を私のものにするにはどうしたら良いのか教えてくれないか?」

 唐突なヴィンセントの告白に、ルースは思わず思考が停止する。

「……一騎打ちでユースフに勝ってください……」

 ルースの頬が、ほんの少し赤くなったのを、ヴィンセントは見逃さなかった。





 幽霊の噂のおかげで、夜中に領主の寝室にわざわざ近づく者はいない。

 ルースとヴィンセントが夜を共に過ごしていても、気が付く者はいなかった。


 暖炉の火が、静かに揺らいでいる。

 その温もりを背に、ルースはシーツを引き寄せるように肩をすくめた。

 ヴィンセントは片腕を枕にしながら、穏やかにルースを見ている。

「わたし、七つの時、【天使】様に会ったことがあるんです」

 ぽつりとルースが呟いた。

 ヴィンセントの指が、波打った黒髪をすくう。

「【天使】に?」

「双子の弟と妹が生まれた時に」

 ヴィンセントは興味深そうに眉を上げた。

「母のお産を手伝って……とても怖かった。やっと弟が生まれて、ほっとしたのも束の間、お腹の中にもう一人いると気づいた時、わたし、どうしていいかわからなくなってしまって」

 ルースの手が、無意識にシーツを握りしめる。

「妹が生まれようとしているのに、母は疲れ切って、産婆は弟のお世話をしていて……。その時だったんです、【天使】が現れたのは」

 ヴィンセントの表情がわずかに変わる。

「でも、わたしが知っている天使とは違ったの。【天使】様は、黒い肌をしていたんです」

 ヴィンセントの視線が鋭くなる。

「黒い肌?」

「怖かった。でも、その天使はわたしを正しく導いてくれました。わたしの手を握って、妹を取り上げる方法を教えてくれたんです。おかげで、妹は無事に生まれました」

 ルースは少し息を詰まらせる。

「でも……このことは誰にも言えなくて。黒い天使なんて、聖典には書かれていないから」

 ヴィンセントは静かに彼女を見つめていた。

「なぜ、私に話した? 私ほど神秘的現象(オカルト)を信じない人間はいないと思うが」

「真実を知りたいんです」

 ルースはそう言って、ヴィンセントの肩にそっと額を預ける。

「わたしが見たものが、嘘ではなかったと証明するために」

 ヴィンセントは沈黙したまま、彼女を見つめる。

 やがて、ふっと鼻で笑った。

「私は自分の眼で見たものしか信じられないんだ」

「……知ってます」

 ルースは少し残念そうに微笑んだ。

「でも、君が嘘をついていると疑っているわけではない」

「聖地に行けば、本物の【天使】様に会えるかしら? そう言えば、戦争の後、聖地はどうなっているんですか?」

 ルースは尋ねながら、ヴィンセントの胸元に指先を添える。

「いつか、閣下と一緒に行ければ良いのに。聖地オス・ロ―に」

 ヴィンセントは何も言わずに、暖炉の火を見つめた。

 ルースの影が、ヴィンセントの隣で揺れる。

 そのまま静かな夜が流れていった。


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