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天国の扉  作者: 藤井 紫
断章
167/193

67.幽霊屋敷

 1420年3月、ヴァロニア王国 ヘーンブルグ領クラン――。


 春が訪れ、へーンブルクの大地は雪解けの水を湛え、芽吹きの気配に満ちている。

 しかし、春の山風が、森を大きく揺らしていた。

 その僻地に、新しい領主が着任するという噂は、領内の者たちの間で密やかに囁かれていた。

 黒髪しかいないヘーンブルグには貴族は男爵位の領主しかいない。

 そしてその領主は、王都より任命を受けてやってくる。ほとんどが独身を貫く老人で、ヘーンブルグで天寿を全うするか、あるいはまた老人に交代することもあった。

 昨年の末に、前領主が亡くなり、代わりの新しい領主がようやくやってくることになった。

 屋敷の周りの森は鬱蒼とし、大きな館に降り注ぐ春の日差しを遮っている。


 館に到着したその男は――金の髪を持っていた。そして、瞳は冷たい海のように青い。

 今回、男爵位を受けヴィンセント・フォン・ヘーンブルグとなった。

 若い――どころか、まだ二十歳にも届かないだろう。噂では降爵された上、辺境のヘーンブルグ領に飛ばされたようだ。

 女中(メイド)のルースは、領主の館の階段からその姿を見下ろしながら、妙な違和感を覚えた。

 前の領主――白髪の気難しい老人とは、まるで違う。

 冷たい目だが、とても美しい青年だ。

 この地の住人は皆、黒の髪をしているというのに。

 金の髪の男は、この館に似合わない。

「なるほど。これが私の新しい『監獄』か」

 金髪の若領主は館の中を見渡し、皮肉げに呟いた。

「ルース、閣下のお荷物を運んで」

 女中頭に言われ、ルースは階段をかけ降りた。

「ご案内いたします」

 女中頭が話す横で、若領主の手から荷物を預かろうとしたが、男は荷物から手を離そうとしない。ルースは困惑したまま、二人の後をついていくだけになった。


 領主の部屋に足を踏み入れた瞬間、壁にかかった絵画がカタカタと音を立てて揺れた。

 バタンッ――!

 重い扉は風に押されるように閉まった。タイミング悪く、良くない現象が起こる。

「……では後ほど、晩餐のご準備が整いましたら、お呼びいたします」

 女中頭は音について敢えて言及せず、その場を去って行った。

 ヴィンセントは、壁の絵画を見上げたままだ。

「閣下、あれは、前々々領主様の絵画です」

 ルースが説明すると、無言のまま、青い視線がルースに向けられた。

「……実は、このお屋敷には、たくさん幽霊が住んでいるんです」

「幽霊?」

 ヴィンセントは、着任数日でその理由を理解することになった。

 夜になると、館のあちこちで不思議な現象が起こる。床が軋み、扉が勝手に閉まり、廊下にかかった絵画が揺れる。特にひどいのは領主の寝室だ。

 使用人たちは「あの部屋には歴代領主の幽霊が出るから近寄るな」と噂し合い、夜には誰も領主の寝室の近くを歩かない。

「馬鹿馬鹿しい」

 ヴィンセントは、薄暗い廊下を歩きながら、呆れたように呟いた。

 幽霊など、ただの迷信だ。

 風の吹き込みと、建物の老朽化による自然現象にすぎない。

 魔女も悪魔も同じ、なんなら天使さえも救済を求める人の心が作り出した幻なのだ。

 魔女として忌避される黒髪しか住んでいないヘーンブルグ領。ここへ飛ばされたのは『シュケム論』を発表したせいだ。おそらく教会的に抹殺されたのだろう。


 ヴィンセントが来てから一月後には、幽霊が現れなくなったことに、屋敷の使用人たちは気が付いた。

 領主の命令により、屋敷の修繕や山の木の手入れがなされていた。今までの老領主たちがしてこなかったことだった。

 しかし、使用人たちは、金の髪のヴィンセントを恐れて、幽霊が去ったのだと思っていた。




*   *   *   *   *




 へーンブルクの館は夜更けに静まり返る。

 かつての領主が亡くなり、若きヴィンセントが新たな領主として着任してから、まだ日が浅い。

 春の夜気はまだ肌寒く、石造りの廊下に響く足音が館に反響する。

 ヴィンセントは手にしていた燭台の灯を頼りに、館の奥まった一角へと歩みを進めた。

 図書室。

 彼がまだきちんと目を通していない部屋のひとつだ。

 へーンブルクの歴史や財務状況を記した記録が眠る場所でもある。

 幽霊屋敷と言われ続けるほど、屋敷は長年管理されていなかったのか。今日こそは確認しようと、ヴィンセントは戸を押し開けた。

 ――そこで、思わぬ人物と出くわした。

 部屋の奥、窓際に置かれた長椅子に、ひとりの少女が座っていた。

 金色の灯火に照らされて、本のページをめくる指先が静かに動く。

 ヴィンセントは眉をひそめた。

「こんな時間に何をしている?」

 少女――ルースは、肩を震わせ、驚いたように顔を上げた。

 だが、すぐにいつもの醒めた表情を取り戻す。

「あっ、閣下。本を読んでいます」

 まるで当然のことを言うように、彼女は淡々と答えた。

「それくらい見ればわかる」

「……なら、どうして聞かれるのですか?」

 少しも悪びれた様子のない態度に、ヴィンセントはわずかに苛立ちを覚える。

 女中が図書室に入り浸るなど、本来ならありえないことだ。

「誰の許可を得て、ここにいる?」

 すると、ルースは平然とした顔で本を閉じ、表紙を撫でた。

「前領主様には許可をいただいています」

 その一言に、ヴィンセントは沈黙する。

 前領主――この館の先代である老侯爵は、亡くなる前から病床に伏していたと聞いている。

 その間に、この少女は図書室に入り浸り、本を読み漁っていたというのか?

「許可を得ているのなら、止める理由はないが」

 ヴィンセントは溜息をつき、室内を見渡した。

 書棚に並ぶ本の背表紙は整然としており、埃すら目立たない。

 まともに管理されているということは、この少女の手によるものか?

「閣下も、本を読まれるんですか?」

 不意に、ルースが尋ねた。

 その問いに、ヴィンセントは少し考えたあと、ゆっくりと答える。

「必要があればな」

 それを聞いたルースは、どこかつまらなさそうに目を伏せた。

「本は紐解くものではなく、読むものですよ」

 天才と呼ばれていたヴィンセントには、挑発とも取れる言葉だった。

「わたしは閣下のように剣は振るえないので、知識は武器になります」

 ヴィンセントはルースを見据える。

 波打った黒髪に、黒い瞳――だが、彼女の瞳は、どこか遠くを見つめていた。

「君はどうやって戦うんだ?」

「そうですね、例えば……、わたしのおすすめは地理なんですが、歴史を知るのも良いと思ってまして……」

 ルースは立ち上がると、本棚の一角へと歩み寄り、一冊の古びた本を引き抜いた。

 それは、ヴァロニアの古い歴史を記した手書きの書物だった。

「この本に書かれている王国の歴史は、現在知られているものとは少し違う部分があります」

 そう言いながら、彼女はヴィンセントに本を差し出した。

 彼はそれを受け取り、ざっとページをめくる。

「君は、こういう本を読んでいたのか?」

「興味があるので」

「女中が読むには、少し硬すぎる本だと思うが」

 ルースは肩をすくめた。

「幽霊がいたら、もっと確実に歴史を知れるんですけどね」

「幽霊?」

「ええ。閣下の部屋では、夜な夜な絵画が揺れるとか」

「修繕済みだが」

「幽霊だったら、昔の出来事の真偽を聞けたのに。残念です」

 どこか飄々とした口調に、ヴィンセントはため息をついた。

「幽霊に歴史を聞くのか。君は変わっているな」

「聞きたいのは、歴史じゃなくて、そこには書かれていない人の想いです」

 ヴィンセントはしばし本を見下ろし、再びルースへと視線を戻した。

「記録なんて、ほとんどが他の人間が書いたものなので、どこまでが真実で、どこまでが誇張なのか……幽霊がいたら、本当の事を教えてくれるのに」

 彼女の目は、好奇心に輝いている。

神秘的現象(オカルト)に頼らずとも、記録を精査すれば真実は見えてくる」

「本当に? では、教えてください」

 ルースは微笑しながら、手元の本を軽く閉じた。

「閣下。この館には昔の記録がたくさんあります。一番古いものは四百年前のものです。……それが、たまに、とても危ういことも書いてあって……」

「何だ?」

「ヴォード・フォン・ヴァロア王が黒髪だったと記述がありました。でもヘーンブルグの領民以外は皆、金髪ですよね? 閣下のように」

 ヴィンセントの眉が、わずかに動いた。

 ヴォード王は黒髪だった?

「精査をお願いできますか?」

 ルースはいたずらっぽく笑い、ヴィンセントを試すような視線を向けた。

 それが、ルースという名の奇妙な女中だった。

 そして――

 この世に生を受けて、初めて興味をそそられる相手と出会った気がした。


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