65-2
皇宮の礼拝所――そこは、戦火の届かぬ静寂に包まれていた。
中庭では戦闘が続き、甲冑がぶつかり合う音と剣戟の響きが宮廷全体に鳴り響いている。
だが、この場所だけは異質だった。
諸侯たちは動揺し、身を寄せ合いながら事態を見守っている。
兵士たちは不安げに剣を握りしめ、寝返るか最後まで抵抗するか、決断を迫られていた。
その場の中心にいるのは、黒髪の女。
第一皇女、アーラン・アル・ファールーク。ラシードの妻だ。
アーランは無表情のまま、机に積まれた古い経典を指先でなぞりながら、目の前の諸侯たちと兵士たちを見据えていた。
幼いころから心の内を見せない、冷たい皇女であることを、宮廷に住まうものはよく知っている。
「それで」
低く、抑揚のない声が響く。
「まだ、どちらにつくか決められないの?」
礼拝所に集まった貴族たちは互いに目を合わせる。誰も口を開かない。
彼らは迷っていた。宰相が討たれるのは時間の問題だった。しかし、それでも革命軍につくことは、旧来の秩序を捨てることを意味する。
「……シナーン様が負けるとは、まだ……」
「革命軍に従えば、本当に我々の立場は保証されるのか……?」
不安を口にする者もいた。
アーランは経典を閉じると、音もなく立ち上がった。
「この場にいる者たち、私の言葉に耳を傾けなさい」
彼女の声は低く、しかし礼拝所に響き渡るように明瞭だった。
「今夜、皇宮の主は変わる。お前たちは、生きるか、死ぬかを選ぶだけ……それだけの話よ」
だが、その言葉の直後――礼拝所の奥から、血の臭いが漂った。
一瞬の沈黙。
そして、ようやく誰かが視線を向けた先に、それはあった。
礼拝所の奥、祭壇の前に転がる血塗れの遺体。
白い法衣が深紅に染まり、床には血の池が広がっていた。
倒れているのは、王宮付きの高位宗教家のイマム。
【天使】に仕え、シナーンとともにファールーク皇国の正統性を支えていた聖職者だった。
貴族たちの顔色が一気に変わる。
「……イマム様……?」
誰かが呻くように呟いた。
「……まさか……」
兵士のひとりが剣を取り落とした。
「まさか、貴様ら……【天使】の代弁者を……!」
怒りか、それとも恐怖か。
それまで迷っていた諸侯たちと兵士たちは、まるで現実を突きつけられたように硬直した。
革命軍は、【天使】すら殺したのだ。
もはや、ここには【天使】の加護など存在しない。
抵抗する意味も、信じるものも、すべてが終わった。
その時、礼拝所の扉が乱暴に開かれた。
「アーラン様! こいつを捕まえました!」
革命軍の兵士が、一人の少女を突き出した。
黒髪の少女――ジェード。
ジェードの服は煤で汚れ、頬には浅い傷がついていた。それでも、瞳の奥にはまだ闘志が宿っている。
「こいつは、宰相の女奴隷です! どういたしますか?」
礼拝所の空気が凍りついた。
「宰相の女奴隷」
諸侯たちの表情が強張る。兵士たちの視線が揺らぐ。
そして、ジェードの視線もまた、血濡れた遺体に釘付けになった。
「……!!……」
ジェードは言葉を失った。
「……お前が、ここに?」
アーランは感情の欠片も見せずに言った。
ジェードは息をのむ。
「ハリが、あなたのところへ行けと言ったの」
第二皇子の名前が聞こえ、諸侯たちは固唾をのんだ。
「ハリーファが? お前に?」
アーランの黒い瞳が僅かに細まる。
「ハリーファはどうしたの?」
「……ハリはシナーンのところへ行ったわ」
礼拝所の諸侯たちがどよめいた。
「ハリーファ皇子が……宰相殿のもとへ?」
「まさか、宰相と交渉を…?」
アーランは貴族たちのざわめきを気にも留めず、ジェードをじっと見つめた。
「それで、お前は?」
ジェードは血の匂いにむせながらも、言った。
「……私は、ここにいるしかないわ」
ジェードは、礼拝所の奥に転がる血塗れの遺体を見ながら、低く呟いた。
ハリーファはシナーンのもとへ向かった。ここ以外に行き場などない。
アーランは一瞬、何かを考えるように間を置いた。
「ならば、お前はここに残りなさい」
ジェードは僅かに目を見開いた。
「どうして……?」
アーランは礼拝所の貴族たちを見渡しながら、淡々と答えた。
「お前がここにいることで、彼らは決断を迫られる」
ジェードは息を呑む。
「……決断?」
「シナーンの女奴隷が、私のもとにいる。それを見れば、もう迷う理由はないはずよ」
アーランは礼拝所を見渡した。貴族と兵士たちは、固唾をのんでその言葉を聞いていた。
「彼女を見なさい」
礼拝所に集まった貴族と兵士たちが、一斉にジェードに視線を向けた。
「シナーンの女奴隷さえ、私に従った」
長い、長い沈黙。
そして――
「……私は、アーラン様に従います!」
ひとり、またひとりと、諸侯たちが膝をつき、兵士たちは剣を捧げる。
ジェードは、アーランの横顔を見た。
そこに表情はなかった。ただ、冷えた夜気のような静けさだけが漂っている。
「つまり、この皇宮はもう私のものよ」
ジェードは、アーランに利用されたことに気づき、唇を噛みしめた。
――この瞬間、宮廷は戦わずしてアーランの手に落ちた。