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天国の扉  作者: 藤井 紫
第五章 呪われた兄弟
164/193

65-2

 皇宮の礼拝所――そこは、戦火の届かぬ静寂に包まれていた。

 中庭では戦闘が続き、甲冑がぶつかり合う音と剣戟の響きが宮廷全体に鳴り響いている。

 だが、この場所だけは異質だった。

 諸侯たちは動揺し、身を寄せ合いながら事態を見守っている。

 兵士たちは不安げに剣を握りしめ、寝返るか最後まで抵抗するか、決断を迫られていた。

 その場の中心にいるのは、黒髪の女。

 第一皇女、アーラン・アル・ファールーク。ラシードの妻だ。

 アーランは無表情のまま、机に積まれた古い経典を指先でなぞりながら、目の前の諸侯たちと兵士たちを見据えていた。

 幼いころから心の内を見せない、冷たい皇女であることを、宮廷に住まうものはよく知っている。

「それで」

 低く、抑揚のない声が響く。

「まだ、どちらにつくか決められないの?」

 礼拝所に集まった貴族たちは互いに目を合わせる。誰も口を開かない。

 彼らは迷っていた。宰相(シナーン)が討たれるのは時間の問題だった。しかし、それでも革命軍につくことは、旧来の秩序を捨てることを意味する。

「……シナーン様が負けるとは、まだ……」

「革命軍に従えば、本当に我々の立場は保証されるのか……?」

 不安を口にする者もいた。

 アーランは経典を閉じると、音もなく立ち上がった。

「この場にいる者たち、私の言葉に耳を傾けなさい」

 彼女の声は低く、しかし礼拝所に響き渡るように明瞭だった。

「今夜、皇宮の主は変わる。お前たちは、生きるか、死ぬかを選ぶだけ……それだけの話よ」

 だが、その言葉の直後――礼拝所の奥から、血の臭いが漂った。

 一瞬の沈黙。

 そして、ようやく誰かが視線を向けた先に、それはあった。

 礼拝所の奥、祭壇の前に転がる血塗れの遺体。

 白い法衣が深紅に染まり、床には血の池が広がっていた。

 倒れているのは、王宮付きの高位宗教家のイマム。

 【天使】(モリス)に仕え、シナーンとともにファールーク皇国の正統性を支えていた聖職者だった。

 貴族たちの顔色が一気に変わる。

「……イマム様……?」

 誰かが呻くように呟いた。

「……まさか……」

 兵士のひとりが剣を取り落とした。

「まさか、貴様ら……【天使】(モリス)の代弁者を……!」

 怒りか、それとも恐怖か。

 それまで迷っていた諸侯たちと兵士たちは、まるで現実を突きつけられたように硬直した。

 革命軍は、【天使】(モリス)すら殺したのだ。

 もはや、ここには【天使】(モリス)の加護など存在しない。

 抵抗する意味も、信じるものも、すべてが終わった。

 その時、礼拝所の扉が乱暴に開かれた。

「アーラン様! こいつを捕まえました!」

 革命軍の兵士が、一人の少女を突き出した。

 黒髪の少女――ジェード。

 ジェードの服は煤で汚れ、頬には浅い傷がついていた。それでも、瞳の奥にはまだ闘志が宿っている。

「こいつは、宰相(シナーン)の女奴隷です! どういたしますか?」

 礼拝所の空気が凍りついた。

宰相(シナーン)の女奴隷」

 諸侯たちの表情が強張る。兵士たちの視線が揺らぐ。

 そして、ジェードの視線もまた、血濡れた遺体に釘付けになった。

「……!!……」

 ジェードは言葉を失った。

「……お前が、ここに?」

 アーランは感情の欠片も見せずに言った。

 ジェードは息をのむ。

「ハリが、あなたのところへ行けと言ったの」

 第二皇子の名前が聞こえ、諸侯たちは固唾をのんだ。

「ハリーファが? お前に?」

 アーランの黒い瞳が僅かに細まる。

「ハリーファはどうしたの?」

「……ハリはシナーンのところへ行ったわ」

 礼拝所の諸侯たちがどよめいた。

「ハリーファ皇子が……宰相(シナーン)殿のもとへ?」

「まさか、宰相と交渉を…?」

 アーランは貴族たちのざわめきを気にも留めず、ジェードをじっと見つめた。

「それで、お前は?」

 ジェードは血の匂いにむせながらも、言った。

「……私は、ここにいるしかないわ」

 ジェードは、礼拝所の奥に転がる血塗れの遺体を見ながら、低く呟いた。

 ハリーファはシナーンのもとへ向かった。ここ以外に行き場などない。

 アーランは一瞬、何かを考えるように間を置いた。

「ならば、お前はここに残りなさい」

 ジェードは僅かに目を見開いた。

「どうして……?」

 アーランは礼拝所の貴族たちを見渡しながら、淡々と答えた。

「お前がここにいることで、彼らは決断を迫られる」

 ジェードは息を呑む。

「……決断?」

「シナーンの女奴隷が、私のもとにいる。それを見れば、もう迷う理由はないはずよ」

 アーランは礼拝所を見渡した。貴族と兵士たちは、固唾をのんでその言葉を聞いていた。

「彼女を見なさい」

 礼拝所に集まった貴族と兵士たちが、一斉にジェードに視線を向けた。

「シナーンの女奴隷さえ、私に従った」

 長い、長い沈黙。

 そして――

「……私は、アーラン様に従います!」

 ひとり、またひとりと、諸侯たちが膝をつき、兵士たちは剣を捧げる。

 ジェードは、アーランの横顔を見た。

 そこに表情はなかった。ただ、冷えた夜気のような静けさだけが漂っている。

「つまり、この皇宮はもう私のものよ」

 ジェードは、アーランに利用されたことに気づき、唇を噛みしめた。

 ――この瞬間、宮廷は戦わずしてアーランの手に落ちた。



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