64-2
「落ち着いたか?」
「うん……」
「ここに入れられるのは、計画通りだ。【王の間】に逃げ道はない。でも、ここにはある」
「計画……? 何の?」
「聖地の、復興だ」
「……シナーンも、聖地復興を口実に、ヴァロニアに連絡していたわ」
「そうか」
ハリーファは周囲を見渡した。
誰も来そうにないので、ジェードに抜け道の仕掛けについて教えた。
ハリーファの指示通りに煉瓦を動かしていくと、鉄格子の一本が抜け、檻の中からなんとかすり抜けることができた。
「一番奥に、ここからの抜け道がある」
そう言って、地下牢の奥を指さした。入り口の反対側は暗闇だったが、明かり取りからの月明かりが眩しく感じられた。
二人が奥に進むと、奥の牢獄の闇の中で何かが動いた。
闇の向こうに、人の気配がする。鉄格子の向こうに、誰かが座っている。
ジェードが小さく声を上げた瞬間、奥に佇む影が立ち上がってゆらゆらと歩み出した。
冷たい鉄格子の向こう、ほんの微かな月明かりに浮かび上がったのは、女――。
ハリーファの息が詰まる。
死んだと聞かされていた女の姿がそこにあった。
「……ファティマ?」
ファールークの血筋を思わせる整った顔立ち。血の気のない白い肌が、薄闇の中で異様に映る。だが、その瞳はまるでホールの色硝子のように透き通る翠。
彼女の髪はかつて 亜麻色だったはずなのに、今は闇のような黒に染まっている。
そして、生きていれば三十路のはずなのだが、若い。
「……ラース……?」
女の口元がわずかに動き、か細い声が響いた。
「……やっと、来てくれた……」
ハリーファの心臓が激しく打ち鳴る。
「……あなたが……迎えに来てくれるのを、ずっと待っていたわ……ラース」
この女は、自分の事を【悪魔】と見間違えているのだ。
ファティマの瞳には、懐かしさと、底知れぬ闇が宿っていた。
ハリーファは足が震えそうになった。まるで、ユースフが初めて【悪魔】を見た時のような緊張感に襲われた。
柵の隙間から、ファティマはハリーファに手を伸ばした。
その瞬間、ハリーファは悟った。
この女は、本物の――魔女だ。
つまり、自分の父親は、ジャファルではない。
――俺は、【悪魔】の子だ。
衝撃が、頭の中を駆け巡る――。
湿った空気が肌を這い、囁くような静寂が地下牢を包む。
ジェードはハリーファの袖を掴み、震える声で言った。
「……ハリ、とにかくここから出ないと」
ジェードの声に我に返った。しかし、そのジェードも困惑していた。
(ファティマって、ハリのママよね……?)
今はそれを考える時間ではない。
ここから抜け出し、【アーディンの契約】を終わらせる――それが、最優先の目的だった。
ファールーク皇国の夜は、静かに狂い始めていた。
ハリーファは真実に震えながらも、ファティマを連れ出し、ジェードと共に、地下牢獄の抜け道を駆け抜けた。
抜け出した先は、まだ皇宮の城壁の中だった。
外で兵士たちの叫び声が響いた。
「反乱軍が侵入した!」
反乱軍は宮廷の門を押し開き、内側から兵士たちを迎え撃っていた。
寝ていた奴隷たちも、ただならぬ騒ぎに寝所を飛び出し、裸足のままで慌てふためいていた。
「イマムが粛清されたぞ!」
遠くから敵か味方かわからない兵士の声が響く。
先に城門が見えた。
革命軍によって開放されているようだ。
家奴隷たちは、自分たちがどうすれば良いのかわからず、城門あたりに集まっていた。
「ハリ! 待って……」
家奴隷の中にジェードの知り合いがたくさん居ると心配する想いが伝わったきた。
本当なら、このままジェードだけを連れて逃げ出す予定だったが、ハリーファは足を止めた。
自分はジェードほど優しくはない。
だが、このまま逃げて良いのか。
シナーンも、ユースフとアーディン、愚かな兄弟の過ちに巻き込まれてしまったのだ。
必ず終わらせる。
まともに歩くことも出来ないファティマをジェードに託す。
そして、ハリーファは大声で叫んだ。
「男達は門を閉めろ! シナーンの退路を断て!」
金色の髪の少年を見て、奴隷たちはざわついた。
「あれは第二皇子だ!」
「奴隷皇子か!」
ハリーファの動向により、奴隷達は、ようやく、何が起きているのか理解し始めた。
「革命だぞ! ハリーファ殿下に従え!」
男達が城門に向かって走り出した。
こんなことに巻き込まれたくなかったが、第二皇子が首謀者であると勘違いさせておく方が、多くの人を助けられるかもしれない。
「お前たちは門の外へ出るな! ここで待て! 革命軍が来る。ラシードに従え!」
ハリーファは大声で叫び、本宮に向かおうとした。
「わたしも行くわ!」
ジェードが呼び止めた。シナーンの女奴隷であるジェードは、連れて行くのもここに置いていくのも危険だ。
ハリーファは決断に迫られた。
自分も第二皇子と言う立場上、ジェードは首謀者ソルの傍にいるのが安全だ。だが、ソルは最前線にいるはずだ。
「ジェード、お前はアーランを探せ! アーランと共に行動しろ!」
必死だった。ジェードに恐ろしい顔を向けてしまったに違いない。
そして、ジェードを振り切って、ソルたちの待つ王宮の中庭へと向かった。
そこでは、すでにソル率いる反乱軍が門を破り、戦いを繰り広げていた。
戦場を見渡し、ハリーファはひとつだけ確信する。
(……これは、単なる反乱じゃない)
これは、ファールーク皇国を終焉へと導く戦いだ。
宮廷の回廊には、剣戟の音と叫び声が響く。
煙が立ち込め、火の粉が夜空へと舞い上がっていた。