64.炎の檻
月明かりに照らされた宮廷の回廊を、影のように歩く男がいた。
日に日に夜の警備が甘くなっていくのを体感できる。
ソルは足を止め、奥深くに広がる宮廷の影を見つめた。
「すべては予定通りだ」
準備を始めてから半年以上、ようやく全てが完了しそうだ。
ソルの頭の中で、ラシードの配下だった者たちがそれぞれの持ち場につく様が思い描かれる。
彼らはただの反乱者ではない。皇国を混乱の渦に巻き込むことが目的ではないのだ。
【宰相】を討つ。その先に目指すのは、新たな統治と、聖地の解放だ。
アーランもまた、宮廷の貴族たちの中に潜む不満を焚きつけ、シナーンを討つための策を巡らせている。ラシードからと偽って送っている献上品もうまく利用できているようだ。
皇宮内の警備兵の一部はすでに買収済み。【王の間】を封じる重い扉の鍵も、既に計画の中にある。
そして、最も重要なのは――ハリーファの脱出。
「まず【王】を、生かしたまま、ここから出さねぇとな」
ソルは笑みを浮かべ、暗闇の中へと消えていった。
* * * * *
夜の皇宮に、突如として爆音が響いた。
「【王の間】が燃えている!」
爆風が窓を吹き飛ばし、瓦礫が中庭に落ちる。
兵士たちは炎の熱気に後ずさりしながら、どうすればいいのかわからず右往左往していた。
青白い炎が闇夜を照らし、火花が空へと舞い上がった。宮殿の中庭へと黒煙が広がる。
「火が広がるぞ!」
「水を持ってこい!」
「ハリーファ皇子が中に!」
兵士たちが慌てふためき、炎の中へ駆け込もうとする。
しかし、その扉の鍵は固く閉ざされていた。鍵を持つ兵士が見当たらず、重い扉は閉ざされたままだった。
「兵士を呼べ! 早く鍵を持ってこい!」
必死に叫ぶ声も、燃え盛る炎にかき消される。
延焼を防ぐため、朱鷺色の煉瓦の壁は崩されてゆく。
そして、その鍵を持つ兵士よりも先に、女奴隷が入り口に駆け寄った。
「どけて! 鍵を開けるわ!」
扉を開けたのは、ジェードだった。
その手には、ソルから渡された【王の間】の合鍵が握られている。
ジェードは震える指で鍵を押し込み、回そうとする。だが、焦るほどにうまくいかない。
「早くしろ! 火が回るぞ!」
兵士の声が背後で響く。
ジェードは歯を食いしばり、全力で鍵をひねった。扉が重く軋みながら開くと、炎と煙が充満する中、入口で倒れているハリーファ の姿があった。
「ハリ!」
ジェードは駆け寄り、ハリーファの肩を揺さぶる。
しかし、ハリーファは目を閉じたまま、微動だにしない。
背後では、火の勢いが増していた。
水瓶から水をかぶっていたようで、ハリーファはずぶ濡れだ。
ジェードは迷うことなくハリーファの腕を取り、力を込めて引きずるように外へ向かう。見物に来ていた家奴隷たちがジェードを助けてくれた。
安全な位置まで運び、ジェードの膝を枕に倒れるハリーファの頬をゆする。
「ハリ、ハリ! しっかりして!」
呼びかけてもハリーファの意識は戻らない。
「待て!」
ハリーファに気が付いた兵士の怒号が響く。
「お前、何故鍵を持っている?」
ハリーファの意識は戻らないまま、二人はそのまま皇宮の地下牢獄へと連行された。
その直後――【王の間】は崩壊し、炎に飲み込まれた。
皇宮の地下は、過去に閉じ込められた亡霊の囁きが響くような、湿った空気に包まれていた。
そこは、ジェードが初めて皇宮に連れてこられた時に、囚われた地下牢だった。
「……ここは……」
あの時は、たった一人、異国の地で恐怖と不安に包まれていた。
だが、今回は違う。ハリーファもまた、同じ地下牢の中にいる。
重い静寂の中で、ハリーファは目を覚ました。
石の壁。冷たい空気。錆びた金属の匂いが鼻をつく。
自分がどこにいるのかすぐに理解した。
皇宮地下牢だ。
目を凝らすと、向かいの牢にジェードが座っているのが見えた。
「……良かった……気が付いた?」
身体を起こすハリーファを見て、ジェードが安堵の表情を浮かべる。
「ジェード? なんでお前が……」
「……ソルから、【王の間】の合鍵をもらってたの。それを使ったから……」
ハリーファはかすかに唇を歪め、笑った。
「これがあいつの計画か……」
ジェードの表情がこわばる。
「……何それ? まさか」
「ああ、俺が、【王の間】に火を放った」
静かに告げられた言葉に、ジェードは息を呑んだ。
「どうしてそんな危ないことを……! もう少し遅かったら、死んでたのよ!」
「でも、お前が来てくれた」
「そんなの、ただの偶然よ! わたし、何も聞かされてなかったのに……!」
ジェードの瞳からはらはらと涙がこぼれた。
向かい合う牢の間に手を伸ばすこともできない。
「悪かった……。もし死んだとしても、生まれ変わったらお前を探すから」
「そんなの意味ないわ! だって……わたしが好きなのは、今のハリなんだから!」
ジェードは混乱して泣きながら怒っていたが、ハリーファは恥ずかしさに口をつぐんでしまった。
外では騒ぎが起こっているようで、地下にまで喧騒が微かに聞こえる。
ハリーファは壁にもたれかかり、ゆっくりと瞼を閉じる。ソルの計らいで、シナーンのもとにいるはずのジェードが一緒にいる事に安堵した。
ジェードを不安がらせてしまったが、宰相の女奴隷を一緒に連れ出すためには、完璧な計画だったと思わずにいられなかった。