63-2
「僕が、魔女だと?」
王宮の大広間で、ギリアン・フォン・ヴァロアは声を低めて静かに呟いた。
目の前には、貴族たちと聖ソフィア大司教が並び、戴冠の可否を巡り、深夜まで激論を交わしていた。
「教会は、王太子殿下の即位を認めません」
「このままでは王太子派は分裂し、シーランドと反王太子派のさらなる侵攻を許してしまいます」
「戴冠を延期し、まずは王位の正当性を証明するべきでは?」
ギリアンは、静かに彼らの言葉を聞いていた。
いつの間に教会はこんなにずうずうしくなったのか、苛立ちを覚えた。そもそも聖典に描かれた版画の魔女と悪魔のせいで、誤った見解を生み出したというのに。
――この黒髪のせいで、僕は王になれないのか?
――シナーンが仕掛けた罠に、ヴァロニアは騙されるのか?
彼は目を閉じ、ヴィンセントとホープの言葉を思い出した。
『君がヴァロニアの王になれ。君が王になって、この百年の戦争と【黒】の迫害を終わらせるんだ。君が、ヴァロニアの正義となれ!』
『王は、民に希望を示す者でしょう?』
ギリアンは、ゆっくりと目を開けた。
「……そうだ。ならば、僕は『魔女王』として即位しよう」
大広間に沈黙が落ちた。
「殿下? な、何を……?」
「僕の存在そのものが、ヴァロニアの歴史を変えるのなら、僕はそれを受け入れよう」
ギリアンははっきりと告げた。
「魔女が悪であると決めたのは誰だ? ならば、その概念ごと変えてやる」
ギリアンの言葉を狂気と捉えた貴族たちは震えた。
だが、ただ一人、ヴィンセントだけは微笑を浮かべていた。
* * * * *
翌朝、戴冠式の鐘が王都ランスに鳴り響いた。
民衆は城門広場に集まり、不安と期待の入り混じった視線を王宮へ向ける。
ギリアンがゆっくりと聖堂へと歩を進めた。
漆黒の髪を堂々と晒して。
そこには王者としての威厳があった。臆病者と言われ、黒髪と存在を隠し続けた王太子の姿はもう無い。
その背後にはヴィンセント、ホープ、王党派の貴族たちが続く。
ギリアンへの揶揄は聞こえず、人々は異色の王に目を奪われた。
聖ソフィア大司教は、聖堂の奥でギリアンを待ち受けていた。
そして、ギリアンに問いかけた。
「王太子殿下――貴方がヴァロニアの正統な王であることを、証明できますか?」
本来の式典には無い流れに、貴族たちは息を呑む。ギリアンが大司教を睨みつけた。
ギリアンが苦しみながら答えようとした、その時だった。
「証明できる!」
その声の主は、ヴィンセントだった。
「証拠は、ヴァロニアのどこかに残されている」
「へーンブルク男爵、証拠とは?」
「かつて、砂漠の英雄王ユースフが、ヴォード王に贈ったオニキスのネックレス。それがすべてを証明するだろう」
聖堂内に居た人々がざわめいた。
「だが、それを待っている時間はない」
ヴィンセントはギリアンを一瞥し、微かに笑った。
「証明とは、言葉や物ではなく――行動によって示されるべきものだ」
大司教は長く息を吐き、ゆっくりと王冠を持ち上げた。
その瞬間、ヴァロニア王国の歴史が変わることを、誰もが感じ取った。
そして、大司教は王冠をギリアンの黒髪の上に置いた。
「ヴァロニア王、ギリアン・フォン・ヴァロアの誕生である!」
王都に歓声が響き渡った。
この瞬間、『魔女王』が誕生したのだった。
そして、さらに人々を驚かせたのは、ヴィンセントが群衆の前で『魔女王』に忠誠を誓ったことだった。
「『ヴァンデの悪魔』と呼ばれるこの私が、『魔女王』に剣を捧げよう」
『魔女王』が最強の剣を手にしたことに、観衆は更に熱狂したのだった。
* * * * *
シーランド王国南部の屋敷で、リナリー・フォン・シーランドは、対岸の動向を知らせる報告を静かに聞いた。
「……ギリアンめ。ヴィンセントに助けられて、ついに王になったか」
本来なら、その王冠は亡き夫、あるいは息子アンリが戴くべきものだった。
だが今、それは忌まわしき黒髪のギリアンの頭上にある。
リナリーは窓の外を見つめながら、指先でオニキスのネックレスを撫でた。
それは、ヴァロア家に伝わる王位の証――だが、リナリー自身、この宝石の本当の意味を知らない。正式にはギリアンの妻にわたるべきものだが、シーランドに嫁ぐ際に母イザベラからヴァロニア王妃の証として渡されものだ。
「だが、思わぬ誤算だな」
ギリアンが『魔女王』を名乗ったことで、彼を討つ大義名分が生まれた。
魔女とは、信仰の名のもとに裁かれるべき存在。
そしてその側にいるのが、悪魔と呼ばれるヴィンセント・フォン・ヘーンブルグ。
リナリーは冷たく笑った。
「ヴィンセントさえいなければ、ギリアンなど脆いもの……」
ギリアン自身は剣士としても未熟で、政治的な基盤も弱い。
だが、彼の背後にいるヴィンセントが問題だった。
『ヴァンデの悪魔』――この六年間、捕らえようとしても、一向に手が届かない。
「……あの男さえ、討てるのなら」
リナリーの指が、無意識にオニキスのネックレスを握りしめる。
その瞬間、奇妙な既視感が彼女を襲った。まるで過去の記憶を呼び覚ますかのように、冷たい感覚が首筋に広がる。
「……ああ、そうか。【悪魔】の子が必要なのか」
彼女はそう呟いた。
この言葉は、彼女の意思ではなく、誰かに囁かれたような感覚があった。
かつて、【悪魔】は彼女にこう囁いた――
『お前の願いを叶えたければ、【悪魔】の子を見つけろ』
その意味が、今になって理解できた。
ヴィンセントを討つには、人間の力では足りない。
だから――
「……【悪魔】の子を見つけなければならない」
リナリーの首元で、オニキスのネックレスが鈍く光る。
それこそが、ヴァロア家の王位正当性を示す――聖地の番人であり、ファールークの王ユースフからの贈り物であった。
リナリーは静かに息を整え、闇へと歩みを進めた。