7.皇族の奴隷
ジェードはファールークの皇宮の地下牢に捕らえられていた。
低い天井は丸く削られている。窓は一切ない。所どころに作られた空気孔から微かに光が入るだけで、そこは昼間でもうす暗い。
ジェードは自分のいる場所が、地下だとも牢だともわからなかった。狭い部屋の中には木製の寝台しかなく、昼も夜もわからず時間の感覚を狂わせる。
夜になると真っ暗な闇に包まれ、風だけが微かに通り抜ける。その音はまるで誰かが悪魔の名を呼んでいるように響いた。
寝台に横たわったままのジェードは、自分が目を開けているのか閉じているのかもわからない。ここに連れられて、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。
生ぬるい風とともに、部屋の外に誰かがいるような気配を感じた。夢か現かの判断もできなかった。
地下への入り口の扉がひらいて、地下に続く階段に光が刺した。階段をおりてくるのは女性と、その召使のような男だった。昼間でも涼しい地下牢の中で、女性は身震いをした。
男の方が鍵を取り出し、ジェードが入れられていた階段に最も近い牢の鍵が開けられた。
「こんなところに長く居てはいけないわ。早くこの娘を運んで」
女性の声が牢に反響したが、ジェードは目覚めることなく、男性に抱きかかえられて運ばれていった。
* * * * *
どこからか心地よい風が流れてきた。
アレー村の朝とは違い、風が妙に暖かい。それでも朝の空気とわかるにおいを感じ、ジェードは目を覚ました。
ジェードが寝かされたベッドには、鮮やかな色の清潔な寝具が敷かれている。頭の下にも柔かい少し小さな枕があった。身体を起こして見ると、掛け布は蔦植物を模した美しい刺繍の縁取りで飾られている。
昨日まで、むき出しの木の台で眠っていたことが悪夢のように感じられた。
(ここは天国……? わたし……死んだの……?)
部屋の中は、壁や天井、窓枠までも、煌びやかな青色の幾何学模様で装飾されている。規則的に並んだ八角形と三角形の模様は、青い太陽のようだ。太陽の中も細かいタイルで様々な模様が描かれていた。
(……ここはどこ……?)
ジェードはベッドからそろりとおりると、窓の方へ静かに歩いていった。
窓から外を見ると、正面には城壁があった。目下を見やると、どうやら高層にいるようで、下には丸い屋根が見える。
丸屋根より下は砂地の庭園になっていて、石畳の遊歩道が作られていた。その道を目で追っていくと、別の建物もいくつか見えた。庭園には所々にナツメヤシの木と背の低い木が生えている。きつい朝日が遊歩道の石を焼き始め、人影もなく閑散としていた。
部屋の中も外も、今までジェードが住んでいた世界とはまるで別世界だ。
窓から外を眺めていると、部屋の主と思われる女性が扉を開けて入ってきた。
「お気づきのようね」
ジェードは驚いてふり向き、しかしどうしていいのか分からず、その場に立ち尽くした。
女性は静かに扉を閉める。歩くと透けるような金の長い髪が揺れる様に目を奪われた。同じ金色の長い睫毛の向こうには、朝日を浴びた海のような蒼い瞳がジェードを見つめている。
それはジェードがずっと心に描いていた【天使】の姿だった。聖地で出会った金の髪の少年よりもずっとイメージに近い。
(やっぱりわたし、死んだのね……)
惚けたように女性の挙動を見つめる。
この女性はなんて美しいんだろう。ジェードは思わず見惚れて女性を見つめた。もしこの女性に羽根が生えていたら、それこそ聖典に描かれた天使そのものだ。
女性の真っ直ぐな金色の髪はとても美しく、短くなってしまった癖のある自分の黒髪がみすぼらしく思えた。
「あなた、お名前は?」
天使のような女性がジェードに問いかけた。
「……ジェード、です。……ジェード・ダーク……」
「『厭世』?」
女性はジェードとは少し違う韻律でジェードの名をくり返した。
「わたくしのことはリューシャと呼ぶといいわ」
リューシャは見た目の美しさに違わず、紡ぎだされる声音も美しかった。話す口元の所作も美しい。近づくと微かに花の香りがする。
「あの……、ここはどこ?」
「ここはサンドラの宮廷です」
「サンドラ……?」
「ファールーク皇国の皇都よ。ご存じないのかしら?」
「ファ…ルーク……? じゃあ、ここは暗黒大陸なの?」
「そうです」
ジェードは驚いて言葉を失った。
中心の地を越えて、暗黒大陸まで来てしまっていたのだ。
ジェードが学校で見た地図は聖地オス・ローのある中央の地までしか載っていない。そこより左側の暗黒大陸は、途切れて載っていないのだ。
「正しくは西大陸ですけれどね」
リューシャの声に怒気が含まれた気がした。
「あなたは一体何者なの? ヴァロニア人だとは聞いているけれど」
「わ、わたしは……巡礼者です」
ジェードは羊飼いと言ったほうが良いのかと迷いながら答えた。
「巡礼ですって? オス・ローは二百年前にヴァロニアとシーランドの戦争の所為で崩壊したというのに」
女性が言うことは、ジェードが学校で習ったことと違う。
「……聖地で戦争をしたのは、シーランドと、ファールークでしょ?……」
ヴァロニアは関係ないはずだ。
リューシャはジェードを見て眉をしかめた。心なしか口調もきつくなりジェードを問い詰める。
「中央の地はファールークの領土です。現在も調停でヴァロニアからの国境超えは禁じられているのを知ってのこと?」
「そんなこと……知らないわ」
「自国民に御触れが行き渡らないほど、ヴァロニアでは王族が疲弊しているということね」
リューシャの言っていることは、ジェードにはまったくわからないことだった。王族が疲弊しているなど、村で暮らしていくには関係のないことだ。村を治める領主の話さえも、噂でしか聞いたことがない。
「では巡礼に来たというのなら、同行者は? 誰かと一緒に来たのでしょう? その者たちは何処へ行ったの?」
「同行者は、いません……。わたし一人で来たから」
その答えを聞いたリューシャはため息をもらし、疑いの眼差しをジェードに向けた。
疑われていることに、ジェードは少し胸が苦しくなった。一人で来たのは真実だ。だが、ヴァロニアから追い出された理由はわからない。
「では、聖地で一体何があったのですか?」
「せ、聖地で……」
「あなたはハリーファ殿下にお会いしたでしょう? 何があったのです」
その問いかけに、ジェードは聖地であったことを思い出した。
聖地で天使と出会い、金色の髪の少年を殺すという自分の天命を教えられたのだ。その後、生まれて初めて見た金色の髪の少年によって、砂色の世界は真っ赤に染められていった。
聖地で最後に見た光景が脳裏によみがえる。
ジェードは恐ろしい光景を思い出し、あの時恐怖で出せなかった言葉がもれた。
「いや……、嫌……」
そんなジェードの様子に、リューシャは少し辛そうな表情を見せた。
「……もう良いわ。少しお休みなさい」
そう言って、女性はジェードの手を引いてベッドに座らせた。
「落ち着いたら、わたくしには本当のことを話して頂戴。悪いようにはしないわ」
先程までのきつい口調とは変わって、リューシャはジェードの手を取ったまま、同情するようにほほえんだ。まるで天使のようなほほえみだ。ジェードには、聖地で少年を殺すように言ってきた【天使】よりも天使のようだ。
ジェードはリューシャにすがりつくように抱きついた。
「……殺されるわ……」
聖地で最後に見た光景が頭の中にくり返される。金色の髪の少年が敵意をむき出しにジェードをにらみつけている。
「え……?」
「……三人とも、あの子が殺したのよ」
「あなた、何を言っているの?」
「ここに連れてこられた時に、大人の死体があったのを見たでしょ! あれは全部あの子が殺したのよ!」
「あの子って……。ハリーファ様……ですか?」
リューシャの口からハリーファの名を聞いて、ジェードは両手で耳をふさぎ目を閉じてうずくまった。
リューシャは、信じられないと言うように頭を横にふり、眉をしかめてジェードを見つめた。
* * * * *
ジェードがいた部屋は、本宮にあるリューシャの部屋だった。
皇子の乳母であるリューシャは、宰相ジャファルの女奴隷の中でも最も高い身分であり、皇族並みの立派な部屋を与えられている。
リューシャは自分のベッドをジェードに明け渡し、夜はどこかへ行ってしまって朝まで戻らなかった。
翌朝、リューシャは部屋に湯船を用意するとジェードに沐浴をさせた。
リューシャと同じ歳格好の胡桃色の髪の女が、ジェードの服を脱がせた。
「わたし……これからどうなるの?」
女ばかりとはいえ、裸にさせられジェードは不安になった。
「あなたはハリーファ様の奴隷となるのです」
聞きたくない名前にジェードは思わず目を閉じ、リューシャから顔を背けた。
「聖地であなたが出会った御方はこの国の皇子です。どこかへ売られるはずだったあなたの身柄を、殿下は買い取ってくれたのですよ」
そう言って、リューシャはジェードを湯船に立たせた。リューシャに指示された胡桃色の髪の女奴隷がジェードの髪や身体の汚れを洗い流す。
湯桶の水が温かかったことにジェードは驚いた。座るように促され、背中を柔らかい布で優しくこすられる。自分でするとも言えず、されるがまま隅々まで丁寧に洗われた。
両手足のあちこちに、すり傷や打撲の後ができていた。いつの間にこんなに怪我をしていたのか、ジェードは自分の膝や腕を眺めた。
オス・ローでのあの恐ろしい出来事がよみがえってきた。しかもハリーファは、殺さなくてはいけない相手だ。そんな相手の奴隷となるなんて信じられない。
「わたし、あの子に殺されるの?」
「ハリーファ様はそんな方ではありません。何を恐れているのですか? わたくしにはあなたの話の方が信じられません」
「わたしは天使に誓って嘘なんか言わないわ!」
「あなたの国ではどうか分かりませんが、皇族の奴隷になれるのはこれ以上ない名誉なのですよ」
「……わたし、この国の名誉なんかいらないわ! それに……奴隷なんて絶対嫌!」
裸であることがジェードの不安を余計にあおる。
ジェードは湯船からとび出すと、近くにあった布で身体をおおった。
「勘違いしないで。我が国では天使の教義に従って、主人は女奴隷に夜伽させることはありません。あなたの国の野蛮な奴隷ではないのよ」
ジェードの前でずっと穏やかだったリューシャが少しいらだったようだった。