63.『魔女王』の戴冠
春だというのに、冷たい風が王都ランスを吹き抜ける。
夜の空気は氷のように冷たかった。
しかし、それ以上に冷たかったのは、王都を覆う不安と恐怖だった。
王宮の正門前、広場には火を掲げた群衆が集まり、混乱の渦を巻いていた。
松明の炎がゆらめき、人々の影を歪ませる。
「王太子は魔女だ!」
「黒髪は魔女の証だ!」
「王位に就けば、魔女の呪いが国を覆う!」
「教会は何をしている? このままではヴァロニアが魔に堕ちる!」
怒号が飛び交い、幾つもの拳が空を突き上げた。
そのうちの一人が、興奮した勢いで地面の石を拾い上げる。
――カンッ!
石が飛び、王宮の門にぶつかった。
一つ、また一つと、投石が始まる。
城壁に当たる音が次々と響き、護衛の兵士たちは警戒を強めた。
広場の端では、王太子ギリアンを支持する者たちが反論する。
「王家の血統を信じろ!」
「ギリアン殿下こそがヴァロニアの正統な後継者なのだ!」
人々の叫びがぶつかり合い、広場は混乱の坩堝と化した。
「戒厳令を発令すべきでは?」
「このままでは暴徒が城へ押し寄せる!」
一部の貴族たちが、焦燥を露わにしながら議論を交わしていた。
彼らの顔には明らかな動揺が浮かんでいる。
しかし、誰もが決定的な一手を打てないままでいた。
このような噂が広まった原因は、遠く離れた国の間者を通じて情報を操作され、民衆の不安を煽られたことだった。
だが、それに気づいていた者は二人だけだった。一人はヴィンセントで、もう一人はギリアン自身だ。
――その光景を、高台から見下ろしている者がいた。
ギリアン・フォン・ヴァロアは、王宮のバルコニーから、広場を見下ろしていた。
燃え盛る松明の光に照らされる暴徒たち。叫び、騒ぎ、王の即位を拒む者と、それを支持する者が激しくぶつかり合う。
ギリアンはその様子を、静かな目で見つめていた。
(まるで『魔女の火炙り』だな)
しかし、ギリアンは知っていた。
暴徒らは本当に魔女を恐れているのではない。
彼らが恐れているのは、二百年以上続く悪しき伝統が覆ることだ。
「ギリアン」
背後からの呼び声に、ギリアンは振り向いた。
そこには、剣を携えたヴィンセントが立っていた。
「僕はシナーンの申し出を拒んだ。でも、まさかここまで仕掛けてくるとは……」
「あちらも何か、急いで君を味方につけなければならない理由があるのかもしれないな」
ギリアンはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
ヴィンセントは鋭い瞳に、わずかに笑みを浮かべる。
「決断の時だな、陛下」
ギリアンは、迷わず答えた。
「……うん、もう大丈夫だ」
ギリアンの瞳には、もはや迷いの色はなかった。
王都の混乱の只中で、ヴァロニアの歴史が大きく動き始めようとしていた。
ランスの聖堂は、夜の闇に包まれていた。
石造りの聖堂の中には冷えた空気が満ち、わずかに灯された燭台の炎が静かに揺れている。
暴徒たちの声もここまでは届かない。
ホープはひとり膝をつき、祈りを捧げながらも、心の奥底に重くのしかかる迷いを拭い去れずにいた。
かつて、教会で勤め、祈りの言葉を口にしていた自分が、いま王太子のために剣を振るっている。
ギリアンのためならば命を懸ける覚悟もある。
だが、それは本当に正義なのだろうか?
ホープの問いかけは、聖堂の静寂に溶け込んでいく。
答えは、どこからも返ってこない。
――その時だった。
微かな音がして、聖堂の扉がゆっくりと開いた。
冷たい風が流れ込み、燭台の炎がかすかに揺れる。
ホープは振り返らなかった。
だが、足音の主が誰なのかは、すぐに分かった。
「君は何に祈るんだ?」
落ち着いた声が響く。
ヴィンセントだった。
ホープは深く息を吐いた。
いずれ彼に見つかるだろうとは思っていたが、それでも彼の問いにどう答えればいいのか分からなかった。
「……今は、わかりません。見せかけだけで、本当は祈っていないのかも」
ホープは手を組んだまま、静かに答えた。
「ぼくは、ずっと天使に仕えてきました。でも、明日、ぼくは王太子様――いえ、陛下の剣となる。それは正しいのかなって……」
ヴィンセントは無言のまま、近くの長椅子に腰を下ろした。
彼の視線は、聖堂の奥にある天使の像を見つめていた。
「天使に聞けば、答えが返ってくると思うのか?」
ホープは唇を噛みしめた。
「……ぼくには、聞こえません……」
ヴィンセントは薄く笑った。
「ならば、君自身に聞け」
ホープは顔を上げ、戸惑いの表情を浮かべた。
「ぼく自身……?」
ヴィンセントはゆっくりと立ち上がり、ホープを見下ろした。
「君の正義は、天使ではなく、君自身が決めればいい」
その言葉に、ホープの心がざわめいた。
天使が示さないなら、自分で決めても良いのだろうか。
ならば、王の正義とは何なのか。
「……王は、民に希望を示す者……」
その言葉を、ホープは無意識に口にしていた。
ヴィンセントは満足そうに微笑むと、ホープの肩を軽く叩いた。
「それを君の王に示してやれ。君の信じる道を」
ホープは静かに頷いた。
この信念こそが、ギリアンが決意を固めるきっかけとなるのだと、まだホープは知らない。
聖堂の扉が再び開き、ヴィンセントの背中が夜の闇に溶けていく。
ホープはその姿を見送り、もう一度祈りを捧げた。
だが今度の祈りは、天使へのものではなかった。
――これは、ヴァロニアの未来と、自分自身のための誓いだった。