62.十六歳の誕生日
誕生日の夜、皇宮では新年の宴がまだ続いていた。
特に今年はシナーンが宰相に就任したことで、いつも以上に騒がしかった。
年末から何かと呼び立てられ、とくに夜は忙しく、ジェードの心も落ち着く暇がなかった。
今日は十六回目の誕生日――
けれど、【王の間】に軟禁されているハリーファと顔を合わせることはなかった。
ジェードの部屋は、シナーンの私室の近くに配されている。
昼になってようやく自室へ戻ると、室内にわずかな気配を感じた。
影が揺れたかと思うと、突如として誰かが飛び出し、ジェードを捕らえた。
悲鳴を上げる間もなく、唇の上に強い手が押し当てられる。
「しっ! 声を出すな」
心臓が激しく打つ。
口をふさいでいる男の肌は黒かった。
ジェードが落ち着きを取り戻したのを見計らい、男は手を緩める。
「……ソル! 驚いたじゃない。……どうしたの? その眼帯……」
ソルはジェードの問いには答えず、懐から一本の鍵を取り出した。
そして無造作に差し出す。
「これを渡しにきた」
ジェードは鍵を見て、息をのんだ。
「……これは、【王の間】の鍵?」
まさか――ソルがハリーファからの贈り物を届けに来たのだろうか。
一瞬、期待が胸をよぎる。
「これ、ハリからなの?」
「いや、オレからのプレゼントだ」
ジェードは肩の力が抜けるのを感じた。ソルが自分の誕生日を知っているはずもない。
「絶対に見つからねぇように、いつも身に着けとけ。ハリーファに会いに行くのは勝手だが、見つかった時のことも考えろよ。今後、お前にしかできねぇことがあるはずだ」
「……そうね、わかったわ」
ソルはジェードの手を取り、鍵を握らせる。
「あ、ありがとう」
ジェードが小さく微笑むと、ソルは目を細める。
「あなたはハリに会ってるの?」
「部外者が口出しすんな。お前は、宰相様と仲良くしてな」
部外者――その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
「ねぇ、ソル、あなたに頼みたいことがあるんだけど」
「……手紙か?」
ソルはため息混じりに言い当てる。
「ヴァロニアに、わたしの弟に、届けてもらえないかしら」
「代償は? 言っておくけど、オレは無料では働かないぜ」
「代償……、わたしは何も持っていないんだけど……。もし何かわたしで協力できることがあればするわ。それじゃダメかしら?」
「そうだな……」
ソルは少し考え込み、口の端をゆがめた。
「じゃ、一回でいい。オレの頼みを聞いてくれるか?」
「……わたしに出来る事なら」
「よし、交渉成立だ。あんたが出来ないようなことは頼まねぇよ」
ジェードはぱっと笑顔になった。
「ハリーファ皇子を殺せとか、そんなことは言わねぇから安心しな」
ソルはそう言って立ち上がると、気配を消すように部屋を出て行った。
【王の間】の合鍵は、聖十字のペンダントと一緒に鎖に通しておこう。
ジェードは首の後ろに両手を回す。
その時、ふと左肩に違和感を感じた。服が濡れている?
ハリーファやアーランに仕えていた時とは違う、宰相の女奴隷に相応しい、刺繍の入った上質な服だ。赤い花の刺繍が施されていたので気付かなったが、右手で左肩の後ろに手を伸ばすと手のひらに血糊が着いた。
(血……? ソルが怪我でもしていたのかしら……?)
血が付いた服を着替えると、部屋の隙間からアサドがひょいっと入ってきた。
毛並みは夜よりも黒く、どこか誇らしげに見える。
「アサド、どこに行ってたの? 首に何か絡まってるわ」
薄い青色の絹だった。誰かが意図的に巻きつけたのだろう。小動物の首に巻くなんて、質の悪い悪戯ではないかと、すぐに外してやった。
その時、チャリンと小気味よい音が鳴り、小さな何かが床の上をころころと転がっていく。
ジェードが追いかけて拾い上げると、指輪だった。
大きさからして女性の指に合わせて作られたものだ。
ヴァロニア語でもファールーク語でもない、絵文字のようなものがうっすらと刻まれていた。
『得たもの全部』
何故か、そう書かれているような気がした。
おかしな内容だと思いながら、指輪など身近に見たこともなかったので、興味から指にはめてみる。すると、誂えたかのようにジェードの薬指にぴったりだった。
アサドの毛には、小さな草の種がくっついていた。
「あなた、どこに行ってたの?」
ジェードは種を指で摘みながら、ふと思い出す。
この種子は、皇宮の裏手の、手入れの行き届かない場所に生えていた草。
【王の間】の周りにも、同じものがあった。
「……まさか……」
(ハリ……?)
毛についている種子を取ってやると、アサドは自分でも毛繕いを始めた。
アサドを抱きかかえ頬擦りし、匂いを確かめる。
この猫はハリーファが買ってくれた最高の贈り物だ。
ジェードはあの市場の日のキスのことを思い出し、ますます黒猫に顔をうずめた。触れた場所が熱を持ったように、今も記憶が蘇る。
(シナーンの女奴隷は、全然安全なんかじゃないわ)
独りため息をもらす。
指輪を外し、黒くなった聖十字のペンダントと、ソルから渡された【王の間】の鍵と一緒にチェーンに通した。
それを胸元に収めると、アサドの黒い毛に顔をうずめた。
黒猫は、満足そうに喉を鳴らしていた。
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