61-2
シナーンの女奴隷となってから、ジェードは一日のほとんどの時間をシナーンの執務室で過ごしていた。
ヴァロニア語をハリーファに習ったのが幸いだった。今や毎日目に入る書類のおかげで、確実にファールークの文字も読めるようになってきた。
執務室の中を、風は穏やかに吹き抜ける。
シナーンが食事に出ている間、部屋の整頓をしていたときのことだった。
机上に積み上げられた書類を、ジェードは思わず息を呑みながら見つめた。
「……ヴァロニア王国宛の親書?」
目を凝らし、震える手で紙をなぞる。
――ヴァロニア王国に対し、聖地復興のための協定を求める
そこにファールーク語で記されていたのは、シナーンの恐ろしい計画だった。
一見すれば、ファールークとヴァロニアが手を取り合う和平のように思える。しかし、本当は、ジェードの身柄の引き渡しを条件として、ヴァロニアを利用し、ファールークの覇権を東大陸まで広げる計画だった。
ジェードは喉がひりつくような感覚を覚えた。
(聖地復興なんて、ただの口実なのね……)
文末の日付を見ると、この密書はすでにヴァロニアへ送られている。
もし本当に王太子がジェードの身柄を求めているのならば、ヴァロニアはシナーンの策略に嵌められるかもしれない。
王太子やホープは、この罠に気づくことができるだろうか?
(何か手を打たないと……)
ジェードは震える手で書類を元の場所に戻した。
シナーンの目を欺きながら、慎重に動くしかない。
ソルに頼んで自分をヴァロニアへ送ってもらう?
いや、また【天使】が天命を果たすよう言ってくるかもしれない。
ソルに頼んで手紙をホープに送る?
いや、ソルに会うにはアーランに会わないといけないが、シナーンに監視されている。
(……わたし、何もできないの?)
自由も力もない。自分では何もできないことに焦りと悔しさを覚えた。
数日後。
その日も、ジェードはシナーンの執務室にいた。
密書が送られたヴァロニアからの返事は――なかった。
「ヴァロニアが慎重すぎる……」
報告を受けたシナーンは、苛立ちを隠さなかった。
それとは反対に、ジェードは王太子の冷静な対応に安堵した。
「ギリアンは交渉の場にすら立とうとしないのか」
低くつぶやくその声には、冷たく鋭い苛立ちが滲んでいる。
「……ならば、別の方法で利用するまでだ」
(別の方法?)
嫌な予感がする。ジェードの背筋に、恐怖が走る。
ヴァロニアが動かないなら、シナーンがヴァロニアを動かざるを得ない状況を作るつもりなのだ。
そして、その切り札となるのはジェードだ。
「ヴァロニアを焚きつけるには……そうだな」
シナーンは淡々と続けた。
「ジェード、お前を公開の場に出す。侵入者として断罪する」
静かすぎる声だった。炎が燃え盛るような怒気でも、感情的な嘲りでもない。まるで天気の話でもするような調子だ。
「わたしを殺したって、ヴァロニアは絶対に動かないわ。わたしはただの羊飼いだもの」
(……シナーンは、本気だわ)
シナーンにとって、ジェードの命も交渉の道具でしかないのだ。出会った時から変わっていない。
「……本気?」
ジェードは、震える声を押し殺しながら尋ねた。
「私はいつでも本気だ」
シナーンは目を細め、ゆっくりと椅子に身を預けた。
「だいたい、王太子様が、わたしを饗すように言ったことの方が怪しいわ」
ジェードは震える心を押し殺しながら、慎重に言葉を選んだ。
「私はまだお前がヴァロニアの貴族ではないのかと疑っているのだ」
「本当に王太子様が黒髪なら……」
ジェードは、ふっと微笑んだ。
「だったら――わたしを殺すより、王太子を魔女に仕立て上げる方が、ヴァロニア全土が混乱すると思わない?」
ジェードはシナーンの目を見つめた。
「……ほう?」
シナーンは椅子に深くもたれかかり、指で机を軽く叩いた。
「それは、なかなか興味深いな。続けてみろ」
一瞬、空気が張り詰める。
シナーンがこの問いを発するということは、ジェード以外に決定的な切り札を持っていないということだ。
「お前の口から、どんな妙案が出てくるか聞いてみようじゃないか」
「ヴァロニアで黒髪が居るのは、ヘーンブルグ領だけよ。王都の王太子様は金髪のはずよ。黒髪じゃないわ」
ジェードは、シナーンの黒い瞳をまっすぐに見つめた。
「シナーンは、魔女になる方法を知ってるでしょう?」
「【悪魔】と契ると魔女となるんだろう。そして、髪の色が黒に変わるのだろう?」
シナーンはジェードの黒髪をじっと見つめた。
「ええ。でも、わたしは魔女じゃないわ。この髪は生まれつきよ」
「ではギリアンは?」
「へーンブルクの人が王太子様を装ったのでなければ、王太子様は本当の魔女という事よ」
ジェードは静かに続ける。
「『魔女狩り』は知ってる?」
シナーンは目を細め、わずかに口角を上げた。
「ああ、もちろんだ。だが、まさかそれを使って私を騙せるとは思っていないだろうな?」
「もし王太子様が魔女であると暴かれたら、王位継承に影響が出るわ」
ジェードは、ゆっくりとシナーンを見つめた。
「だから、王太子様が魔女であると広める。それだけでいいの」
シナーンはしばらく沈黙し、肘掛けに指をトントンと打ちつけた。
「確かに、魔女かどうか、ギリアンは答えをはぐらかしたな」
「それに、王太子様が魔女なら、その王太子様を、直接策略に嵌めるなんて無理よ。魔女を怒らせたら報復があるのよ。聞いたことない?」
本当はジェードもよく知らない。これはハリーファから教わったことだ。
「【魔女の報復】か。確かに聞いたことはある」
ここからが作り話だ。ルースのようにうまく話さなければならない。
「わたしは魔女じゃないのに村から追い出されたの」
「何故だ?」
「私も報復で魔女の呪いを受けてしまったからよ」
「呪い?」
シナーンも息を飲む。
「実は、わたしの姉が本物の魔女になってしまって、【悪魔】の子を身籠ってしまったの……」
ジェードは嘘の涙を目に浮かべた。
「それで?」
「……でも、わたしのせいでその子は生まれなかった。だから魔女の呪いを受けてしまったの」
シナーンは黙ってジェードの話を聞いている。
「教会の先生に、聖地で【天使】様に会えば、魔女の呪いを解いてもらえるって言われたの。それで……」
シナーンの表情が変わった。
「続けろ」
「聖地で【天使】様に会ったら言われたの。『ハリを殺したら願いを叶える』って」
シナーンは、低く笑った。
「はっ、なるほど。それでお前はハリーファの命を狙っていたのか」
「……そうよ」
作り話を混ぜながら、ジェードは話続けた。
「でも、もう魔女の呪いを解くのはあきらめたわ」
「どんな呪いだ?」
「……ヴァロニアに帰れない呪いよ」
シナーンは微かに笑った。
「お前は、口が達者だな」
ジェードは、心臓の高鳴りを隠しながら、小さく微笑んだ。
「……そうかしら?」
「私にそのような口をきくのはお前だけだ」
シナーンは立ち上がると、机の上の書類を指で軽く払った。
「悪くない。お前の話は、意外と退屈しないな」
ジェードは、息を呑んだ。
「今夜は気分がいいから、今回は見逃してやろう。次の話も考えておくことだな」
その言葉に、ジェードは表情を失い、シナーンを睨みつけた。
――自分の力だけで命を繋ぎとめられたことに、ジェードは胸をなでおろした。