60-2
突然、机の上を黒い影が駆け抜けた。
「……何だ?!」
シナーンが顔をしかめた。
続いてもう一匹、白っぽい毛並みの猫が、それを追うようにして机を飛び越えた。
その衝撃で、机の上の書類が宙に舞う。
「アサド?!」
ジェードが猫の名前を呼ぶと、黒猫はニャアと短く鳴き、床に降りてジェードの足元にすり寄ってきた。
ジェードはしゃがみ込み、自分の黒猫を抱き上げる。
その間に、もう一匹の猫は素早く部屋の外へと逃げて行った。その直後、遠くで書類が一枚、はらりと舞い落ちた。
「おい、書類が……」
シナーンは舌打ちし、乱暴に書類をかき集める。
「まったく……」
ジェードは慌てて散らばった紙を拾い上げる。
ふと、手に取った一枚に、見覚えのない文字が並んでいた。
(……これは、ファールークの文字?)
ジェードはファールーク語が読めない。ハリーファに習ったのは、母国のヴァロニア語だけだ。
しかし、その紙の中に、いくつかの知っている名前が並んでいた。
(ヴォード・フォン・ヴァロア……、ギリアン・フォン・ヴァロア……)
そして、ファールーク語の【黒】の文字だった。
ジェードの心臓が、鼓動を早めた。
(ヴォード、ギリアン……【黒】……?)
だが、彼女はまだ、その全貌を理解することができなかった。
* * * * *
夜の皇宮。
ソルは【王の間】の前に立ち、音が鳴らないように鍵を開ける。
そっと扉を押そうとした瞬間――
「ニャアアアアア!」
「……っっ?!」
飛びかかってきた黒い影に、思わず声を上げそうになる。
(……何だ、お前は!)
黒猫 がソルの足に絡みついてきた。
暗闇の中で、まん丸く愛くるしい瞳が、じっと彼を見上げている。
(……なんなんだ)
ソルは猫を抱え【王の間】へ忍び込み、そのままハリーファの前に現れた。
「……なんでお前は猫をつれて来たんだ?」
「入り口でコイツが襲ってきたんだよ」
今まで宮廷内で黒猫は見たことがない。と言うことは、
「お前、アサドか?」
ハリーファの問いかけに応えるかのように、猫はニャアと短く鳴いた。ソルを振りほどいて床に飛び降り、のんびりと毛繕いを始めた。
「ほら、約束の品だ」
ソルは右腕に着けた腕輪を見せた。――それは確かに、長の腕にあったものだった。
だが、それをソルが 自分の腕に着けたまま 持ってきたことに、ハリーファは 不敬な奴だと呆れた。
本来、【エブラの民】の長が着けるものだ。それを身に着けるなど畏れ多い。だが、ソルはその末裔の血を(少し)引いている。
「これは、確かに【エブラの民】の鍵だ」
「そうか」
ソルは腕輪を外し、ハリーファに渡した。
「墓に、もう一人、『忘れられた者』が一緒に埋葬されていたぜ」
言いながら、ハリーファの反応を探る。
ソルは今回もちゃんと調べてきている。一緒に埋葬されていたのは女なのは間違いない。
ユースフの妻は、若いころに結婚したシュケム王国の王族の娘エイダ、ウバイド皇国の最期の皇帝の姉シャーミールの二人だ。
どちらかわからないし、現実的に考えて、身分の高い女が同じ場所に墓を作るはずがない。きっと王の特別な愛人か何かなんだろう。
だが、ハリーファも何も知らないようだった。
「一応、他のも持ってきた」
ソルは袋の中から、一緒に埋葬されていた品を取り出し、テーブルに並べた。カチャカチャと金属音が鳴る。
並べられた小物を見てハリーファは驚いたように目を見開いた。ランプの灯りを近づけてまじまじと眺める。
「それも、必要なら、研きかけてくるぜ?」
ハリーファは、目の前の指輪と髪飾りに視線を奪われた。
(……これは……)
それは、かつて サライが泉に落とした指輪 だった。それに、シュケムの君主から与えられた指輪、サライへ贈った髪飾りもあった。
ハリーファは静かに目を閉じた。手が震えそうだったが、ソルの手前、なんとか平静を装った。
(……『忘れられた者』……アーディンが、サライを共に埋葬したのか)
自分の死後、アーディンがそのような配慮をしてくれていたことを悟り、複雑な感情に襲われた。
まず、最初に感じたのは驚きだ。
ユースフはサライを密かに埋葬した。それは、彼女の存在を歴史から隠し、守るためだった。
それなのに、自分の死後、アーディンがわざわざサライを同じ墓に埋葬していたとは。――この事実を知り、戸惑った。
しかし、次第に感謝と安堵に変わっていった。
ユースフにとってサライは特別な存在だった。それを知っていたのはアーディンだけなのだ。ユースフの死後も「サライを一人にしないように」と、独りで手を尽くしてくれたに違いない。
己の過ちによって、歴史の闇に埋もれてしまった二人の繋がり。それが、アーディンの手によって結ばれたことに、 救われるような思いを感じた。
しかし、同時に 後悔と切なさも押し寄せてきた。
ユースフとして、 サライを救えなかった。
もし、前世で違う選択をしていれば、彼女を苦しみの中で死なせることはなかったのではないか?
今のハリーファとしての自分が、 本当にユースフの罪を清算できるのか?
アーディンはサライとユースフを一緒にすることで、転生する後世の王に何かを伝えようとしていたのではないか?
ならば、 今度こそ、自分は過去と向き合い、【エブラの民】を救わなければならない――
サライの願いを継ぐのは、自分しかいない。
ハリーファは墓に刻まれていたと言う『忘れられた者』に、
(俺はお前を忘れていない)
と心の中で誓った。
「ソル、頼みがある。この腕輪を、ルブナンの老人に返してやってくれ」
「そうだろうと思ってたぜ」
ソルは軽く肩をすくめる。
ハリーファは、改めてソルを見つめた。
ソルにどうやってこれほどまでの借りを返せばいいのだろうか。
「ソル、お前の望むものはなんだ?」
ラシードが死んだ今、この男は何を求めているのだろうか。金が欲しいのか? それとも……?
その問いにソルが口を開いた。
「おいおい、【悪魔】みたいなこと言わないでくれよ」
姿も【悪魔】似ているハリーファに言われて、少し驚いたようだ。
「……俺は【悪魔】じゃない……」
「ほんとかよ……。【エブラの民】が【天使】の血筋だとか言ってたから、案外【悪魔】の血筋ってのもあるんじゃねぇか?」
ソルは軽口で言ったが、ハリーファは全く笑えなかった。
「お前に何を還せば良い?」
「じゃあ、いつか、一回だけ、オレの頼みを聞いてもらえないか?」
「わかった。俺が出来る事ならな。だが、命だけはお前にはやれない」
「死なれちゃ困るんだよ」
「一回だけでいいのか?」
「あぁ。だけど、これから、あんたの異能と立場、利用はさせてもらうぜ。オレ達はあんたと仲間として振舞わないが、絶対に裏切らない。それは信じてくれ」
ソルがオレ達と言うのは他に仲間がいるという事だ。アーランと、メンフィスに他にも仲間がいるのだろう。
「お前達は、一体、何をする気だ」
「本当にオレの心は聞こえてないんだな」
ハリーファは黙って頷いた。
「オレは……ラシードの遺志を継ぐ」
その言葉に、ハリーファは息をのむ。
「ラシードの遺志……?」
「ファールーク皇国の支配から聖地を解放するために、ファールーク皇国をぶっ潰す。そして聖地を復興する。それが、ラシードの目指してたことだ」
ハリーファは拳を握った。
『【エブラの民】を救う』というサライの願いと、ソルが目指す聖地復興――
その二つは、一つに繋がるかもしれない。
だが、その為には、シナーンの野望を阻止しなければならない。
「シナーンは、聖地をファールーク皇国の手で復興しようとしている」
「でも、それだと、本当の『聖地』じゃねぇんだ。わかるだろ?」
ソルの言葉に、ハリーファは深く頷いた。
「……俺は、もう二度と、あの時のような後悔をしたくない。今度こそ、過去を終わらせる」
二人の共闘が始まろうとしていた。