59-2
砂漠の静寂の中、ソルはひとり馬を駆けていた。
彼の右目はまだ完全には回復していないが、思考は冴えていた。
(ルブナンとアスワド……そして鍵と【悪魔】……)
最後のルブナンの老人は、ハリーファを【悪魔】と呼び、願いを口にした。
(あのとき、ラシードの最期に現れたあの男が【悪魔】だったのか?)
そして、ラシードが最後に願ったのは、アーランの身体と生まれてくる子どものことだった。
右目を失い、再びローハに戻るのは恐ろしかった。
だが、彼自身の出生の秘密、【天使】と【悪魔】の正体を知るためには、避けては通れない道だった。
(ラシードがアスワドと交渉していたのは、聖地にかけられた【アーディンの呪い】を解くためだったのか?)
それを確かめるため、ソルは馬の速度を上げた。
夜の皇宮。
【王の間】の辺りは人の気配がなくなり、静まり返っていた。
闇に紛れ、ソルは静かに移動し、合鍵で扉の鍵を開けた。
明かりの消えた室内を、奥に入っていく。
「……ハリーファ」
低い囁き声に、ハリーファは驚き、顔を上げた。
「……ソル! 無事だったのか!」
「あぁ、あんたが医者に金をたっぷり払ったおかげでな」
ソルの右目は眼帯で隠されていた。
サンドラの医者にソルを預けた時に、皇宮への抜け道のヒントを伝えておいたのだ。水利施設には、以前ソルに頼んだ【王の間】の合鍵も置いてきていた。
「……お前には随分借りができたな」
「これからまださらに増えるぜ」
ソルがにやりと口の端を上げる。
「扉の鍵は、腕輪だ」
「……腕輪?」
「長が右手に着けていた腕輪らしい。それが扉の鍵だ」
【エブラの民】の長は儀式の時に、確かに腕輪を着けていた。だがユースフは腕輪を奪ったりはしていない。儀式を見たのも前世でたった二回だけなのだ。
「あんたのことを【悪魔】と勘違いしたじいさんが言ってた」
ハリーファの瞳が揺れる。
【悪魔】はユースフの死に際にも現れた。
そして、その時――。ユースフの今際の記憶が蘇る。
『これは、あの娘の望みを叶える代わりに貰った物だよ』
ラースは細かい装飾の施された腕輪をユースフの右腕にはめたのだ。
もう自分で身体を動かせなかったのだ。本当に腕輪がはめられていたのかもわからないが、もしそのまま埋葬されているなら――。
「……その腕輪は、もしかしたら、【王】の墓の中、かもしれない」
「は? 【王】の墓?」
あまりの唐突さに、ソルは訝しむ。
「そうだ。【悪魔】が、【王】に渡していた」
ソルは言葉の意味を測るように、片目だけでじっとハリーファを見た。
「鍵がないと扉は開かない……と思ってたが……」
ハリーファはぽつりと呟く。
「扉は、開いたまま閉じていなかったのか……? サライは……扉が開くことを望んでいたのか……?」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
一体何の話をしているのか。ソルは、ハリーファを問い詰めたい衝動をこらえた。まだ今聞いてはいけない話なんだと、違う言葉をこぼす。
「実は、……オレも【悪魔】を見たことがあるんだ……」
「……何?」
ハリーファの声がかすかに震える。
「あんたによく似た男だった」
「まさか……」
その瞬間、ハリーファは悟った。ソルの心は読めないのに。
「……ラシードは、死んだのか?」
ハリーファの指先が、かすかに震えた。味方になってくれそうな人物がまたいなくなってしまった。
ソルは悲しそうに笑った。
「……皇女さんの言う通り、本当に人の心が読めるのか?」
ハリーファの異能はアーランがソルに伝えていたが、ソルはずっと信じていなかった。
「違う、俺は……、いや、違わないんだが……」
「本当に人の心が読めるんだな」
「違う! お前の心は本当に読めないんだ! 初めはお前が暗殺者のように心のうちを隠しているんだと思っていた」
ソルはしばらく沈黙し、ゆっくりと吐息を漏らした。
「……面倒な能力だな」
ハリーファはソルの言葉をどう受け取るべきか、迷った。
「なぜ、こんな力があるのかも、お前の心は読めない理由もわからない。だが、ルブナンとアスワドの民の心の声も聞こえなかった」
「俺もアスワドの血を引いてるからか?」
ソルは眉をひそめる。
ハリーファは卓上のランプを手に取り、ソルの顔を照らした。真剣な目でソルを見つめる。
「……その可能性はあるな。あの時、老人はお前の瞳の色は【天使】の血筋と言っていた」
ランプの明かりに照らされると、ソルの黒い瞳が菫色に見える。
「アーランは……ラシードの死を、まだ知らないんだな……」
「……本当にオレの心は読めないのか? 勘が良すぎるだろ」
「アーランがお前を探していた。お前から伝えてやれ」
ソルは少し考え込むように腕を組んだが、すぐに話題を切り替えた。
「それで……【王】の墓ってのは、どこにあるんだ?」
ハリーファは顔を上げ、ソルの目をじっと見つめた。
「多分、シュケムだ」
「シュケム?」
ソルの眉がわずかに動く。
「シュケムから西へ向かった先に歴代の王を埋葬した墓がある。そこじゃないかと思うんだが……」
今まで過去の様々な資料を調べてきたが、自分がどこに埋葬されたかは知らずにいた。
「確か……戦場だった場所か」
ソルは低く唸った。
「行けるのは、お前しかいない。もう俺はここから動けない。だけど、もし腕輪が本当に墓の中にあるなら、……それを手に入れてルブナンの元に返さなければならない」
ソルは片方しかない目を伏せ、しばらく考え込む。
「オレに……墓を荒らせってか」
ハリーファが微かに笑う。
「頼む」
ソルは軽く肩をすくめ、部屋の出口へと向かった。
「じゃあ、また貸しが増えたな」
「……返せるかわからないがな」
ソルが何を考えているかわからないが、にやりと笑った。
「なら、もっと増やしてやるよ」
ソルはそう言い残し、静かに【王の間】を後にした。