59.開かれぬ扉
ファールークの空が茜色に染まる頃、皇宮の門が大きく開いた。
沈黙を切り裂くように、砂埃を巻き上げながら騎乗の軍勢が駆け込む。シナーンによる秘密裏の旅路は、騒がしく幕を閉じた。
その中心には、深手を負ったマリカの姿があった。
「マリカ!」
駆け寄った兵士が彼女を馬から抱き下ろす。マリカの右腕には深い刀傷があり、服は血に染まっていた。顔は蒼白で、力なくぐったりしている。
その後ろから、シナーンが冷ややかな表情で馬を降りた。
「ヴァロニアの賊に襲われた。マリカが斥候を率いていたが、不意を突かれた。幸い、敵を退けたが……」
「この傷が、幸いか?」
怒りに満ちた声が城門の広場の中に響いた。シナーンの父、宰相ジャファルが進み出る。
「そなたが聖地復興を急ぎ、ヴァロニアの勢力を刺激したからだ。ハリーファを利用して、強引に進めるべきではなかった!」
シナーンは静かに、しかし冷徹な眼差しで父を見据えた。
「父上……あなたの慎重さが、国を衰退させているのです」
ジャファルの顔が険しくなる。しかし、シナーンの次の言葉はそれを超えた衝撃を与えた。
「あなたは宰相の地位を退くべきだ。私の母と同じフェスで余生を過ごすと良い」
ジャファルは目を見開いた。
「何を……」
「私はこの目で聖地を見てきた。もはや復興に躊躇する余裕はない。私は自らの手で進める」
「そなたのやり方では国を滅ぼすことになるぞ!」
「……ヴァロニアの魔女が、いくつかの国が亡びると予言したそうですよ」
シナーンはそのままジャファルの横を通り過ぎ、皇宮の奥へと向かった。
そして、その決断の象徴として、ハリーファは【王の間】に軟禁され、ジャファルはフェスへと更迭された。
* * * * *
後日、ジェードはシナーンの私室に呼び出された。ここに来たのは二年振りだ。良くない記憶がよみがえる。
「ジェード、お前は今日から私の女奴隷とする」
その言葉に、ジェードは小さく息を飲んだ。十五歳の誕生日に、いずれこうなることは覚悟していた。
「……わかったわ」
意外なほど素直に従うジェードを、シナーンは興味深げに見つめる。
「そなたはこれから宰相の女奴隷として勤めるのだ。まず信頼を得るために、偽りなく答えよ」
シナーンの質問は容赦なかった。
ヴァロニアでの家柄、家族、兄弟、過去にしていた仕事――次々と問われる。
さらにヘーンブルグの地理や交易路についても尋ねられ、ジェードは動揺する。知らないと答えることが罪であるかのように感じられる。
シナーンの瞳は鋭く、ジェードの内面を見定めているようだった。
「そもそも、そなたは聖地でハリーファに出会ったと言うが、あの聖地に何をしに来ていたんだ?」
ジェードは何と答えるべきか迷った。
忌年の誕生日に贈り物をもらい、両親に追い出され、天使に導かれた――それをそのまま言えば信じてもらえるのか?
「……【天使】様に、導かれて……」
恐る恐るシナーンの顔を見ると、彼は驚きもせずジェードを見つめていた。
やがて、静かに立ち上がる。
「お前の部屋を用意させる。今日中に移動するんだ」
「私は、アーランのお世話を……」
「それはもう必要ない」
シナーンは淡々と告げる。
「今後ヴァロニアとの交渉には、お前が役に立つ」
その瞬間、ジェードの背筋に冷たいものが走った。
ヴァロニアへの交渉材料――?
彼の意図は明確ではなかったが、何かが起きているのは確かだった。
ジェードは、漠然とした恐怖に包まれた。
皇宮の裏手の静寂に、足音が柔らかく響く。昼間なのに人気のない場所に足を踏み入れた。
アーランは小さなカナンを抱きながら、ゆっくりと庭園を歩く。目の前には朱鷺色の【王の間】。
そこに、異母弟が囚われている。
アーランはシナーンよりラシードの屋敷に強制帰還命令を受けた。
ジェードもシナーンの手に落ち、今やアーランのもとへ来ることさえ叶わない。
そして、もうひとつの問題――
(ソルはどこにいるの……?)
アーランは思い悩んでいた。
ソルと連絡が取れない。メンフィスに戻るにしても、彼の助けなしではどうしようもない。
このままでは、何もかもシナーンの思うがままだ。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
――ハリーファなら、何か知っているかもしれない。
決意を固め、アーランは【王の間】へ足を向けた。
【王の間】の扉は閉ざされ、その周りを囲う門は固く閉ざされている。
そして、その前には、シナーンの命令で配された兵士たちが並んでいた。
アーランはあくまで自然に、カナンを抱いたまま近づく。
「……メンフィスに戻る前に、叔父様にご挨拶しておきましょうか……」
まるで赤ん坊に話しかけるように、何気なく呟いた。
しかし、その言葉の裏には別の意図があった。
(ハリーファ! 聞こえているなら、窓際に来なさい!)
心の中で、強く呼びかける。
――しばらくして。
面格子の向こうに、金色の髪がかすかに揺れた。
「アーラン?」
声が響く。
ハリーファの姿が、窓の向こうに見えた。
アーランはすぐに視線を兵士たちへ向け、冷静に振る舞う。
「叔父様も、あなたに会いたがっていたようね」
まるで何気ない会話をしているように見せかけながら、アーランはハリーファを見つめる。
ハリーファの視線が、カナンに注がれる。
その瞳には、今まで見たことのない優しい光が宿っていた。
「アーラン、お前の子か」
「そうよ」
アーランは短く答える。しかし、そのまま心の中で問いかけた。
(ソルに連絡がつかないのだけど、あなたから連絡できる?)
ハリーファは一瞬、思案するような表情を浮かべた。
しかし、次の瞬間、静かに首を横に振る。
アーランは落胆を隠しながら、次の問いを投げる。
(あなたは、ラシードに会ったの?)
窓の向こうで、ハリーファの肩がわずかに揺れた。
そして、再び首を横に振る。
アーランは息を詰めた。
(……何かがおかしい)
ソルが何も言わずに消えた理由、ラシードが為そうとしていた事、そして、ハリーファの目的――。
このすべてが、どこかで繋がっている気がした。
しかし、今は兵士たちの監視がある。これ以上、深く踏み込むことはできない。
(……まずは、シナーンの目を欺くこと)
アーランはゆっくりと微笑み、カナンを抱き直した。
「じゃあ、叔父様、ごきげんよう……」
アーランはカナンの代わりに言葉を発すると、静かにその場を離れた。
ハリーファは、その背中をじっと見つめていた。
――まだソルは戻ってきていない。
ハリーファの心にも、焦燥が募った。
* * * * *