58-2
壁の外から馬の嘶きが響いてきた。
ソルとハリーファは隙間を抜けて石の扉の方に向かった。
砂埃を巻き上げる中に、馬に乗った五人の男たちがいた。彼らは黒い肌に黒い髪、そして黒装束を纏っているが、瞳だけは菫色に光っている。
ソルとハリーファが扉の前に置いていった馬に気が付いてやって来たようだ。
「お前達、何者だ?」
その低く冷たい声に、まるで砂漠そのものが息を潜めたかのような静寂が広がった。
威嚇するように、騎乗したまま三頭が二人の周りをウロウロと回る。
「この扉は我々アスワド族が守っている。ルブナンの扉を侵犯するとは神への冒涜」
肌の白いハリーファに男たちの視線が集まる。
「お前は仲介人か?」
「俺は」
ハリーファが口を開きかけたその瞬間、ソルは素早く一歩前に出た。
「……オレが話す」
その背中に、かつて父親の命を奪われた苦しみと、ラシードの意志を継ぐ覚悟が宿っていた。
真昼の太陽の下、ソルの瞳も微かに菫色に光る。
騎乗の男もソルの瞳の色に気が付いた。
「お前、その瞳の色はアスワドだな。どこの者だ?」
「オレ達はファールーク人だ」
ハリーファの前に出てソルが話す。
「オレはラシード・アル・ハリードの奴隷で、こっちは新しい仲介人だ。主人の命令でここに来た」
ラシードの名を聞いて、後ろの二人がこそこそと囁き合った。
「ラシード・アル・ハリードの名を騙るとは命知らずな……!」
黒装束の男が剣を抜きかけた瞬間、別の男がその腕を押さえた。
「待て。この男、ズルクのユースフの子ではないか?」
「……生きていたのか」
相手はソルの事を知っているようだった。
「オレの父の事を知っているのか?」
「知っているとも……」
「お前の父は部族間の掟を破った咎人だ。アスワドの女を犯し、お前を生ませた――そして……」
「そして?」
「お前を我らから連れ去った」
幼すぎて曖昧だった記憶が呼び覚まされる。父はずっと部族内で囚われており、ソル自身もひどい境遇で育てられた。
「お前達が父を殺したのか!」
「死ぬべき運命の子が生きていたとはな」
ハリーファは、この状況を変えられないかと、全員の心に耳を傾けたが、ここに居る全員、誰の心の声も聞こえてこない。
「仲介人よ、ソロモンを残して、国に帰れ。そしてラシードに伝えるのだ。お前の努力は無駄だった。滅びの運命は変えられないと」
「ソルをどうする気だ」
「混血は許さない」
その言葉が放たれるや否や、銀色の光が一閃し、ソルの右目を貫いた。
「ソル!」
ハリーファの叫びが空気を切り裂く中、ソルは苦痛を押し殺して立ち上がる。血が頬を伝い、砂に赤い滴を描いた。
ソルは痛みに耐えるように歯を食いしばり、倒れることを拒むかのように立ち続けた。
突如、太陽が欠け始めた。あたりは徐々に暗くなる。
アスワド族たちは、闇が押し寄せるように頭を抱え、苦悶の声を上げた。その姿はまるで見えない手に絞めつけられているかのようだった。
五人の男達が苦しみ悶え、次々と落馬する。まもなく、あたりは真昼とは思えないほどの無明の世界となった。
「これは……日蝕……?」
ソルも矢を受けたまま、苦しそうに地面に崩れ落ちた。
「ソル!」
ハリーファはソルに駆け寄った。
不気味な闇の中、ソルの黒馬は主人を守るために暴れ出し、ハリーファの傍にやってきた。
ハリーファはソルの肩を抱き寄せると、混乱の中馬を駆り、砂漠の彼方へと走り出した。
一体、ソルと彼らの身に何が起こったのかわからないまま、意識のないソルを連れて砂漠を越えた。
【エブラの民】はルブナンとしてアルザグエに移住していた。
【悪魔】との契約も関係がありそうだった。
そしてラシードも、すでに彼らと接触していたことも分かった。
国境で出会った少年や人々の心は聞こえてきたが、ルブナン、アスワドの民の誰からも、ソルと同じように心の声が聞こえてこなかった。
進むべき道が見えてきそうだ。ハリーファは新たな決意を胸に前へ進んだ。
帰途、空を雲が覆いつくしていた。西大陸ではこんなに曇ることはほとんどない。遠くでずっと雷が鳴り続けているが、雨は降らない。
国境の町で既に日が暮れていたため、メンフィスには寄らず、サンドラの街の医者にソルを預けた。
* * * * *
深夜、ジェードは家奴隷たちの宿舎に戻る途中だった。
気になって途中【王の間】の近くを通った。すると、窓からオイルランプの灯りがちらついている。
夕方に来た時にはランプはついていなかった。ジェードはそっと【王の間】の中に入った。
かかっているはずの鍵が開いている。
「ハリ……?」
ジェードが恐る恐る扉を開けると、そこにはハリーファが居た。
服を脱いで、濡らした布で髪と身体を拭いている。ジェードは中に入ると慌てて扉を閉めた。
「ハリ! どこへ行ってたの?」
ハリーファが戻ってきたことに安堵するのも束の間、その姿に声を失った。
ハリーファの身体をぬぐう布が真っ赤に染まっていた。
「ジェード……、何故ここに来たんだ……」
ハリーファはぼそぼそとつぶやいた。
「ケガしたの?」
どこから出血しているのかわからず、迂闊にハリーファに触れることができなかった。
「これは俺の血じゃない。お前は、部屋へ戻れ」
ハリーファは奥の部屋から服を着てくると、脱ぎ捨てていた血濡れの服をぐるぐる丸めてしばった。それを抱えて、また速やかに【王の間】を出て行った。
ジェードは何が起こっているのかわからず呆然とした。
そして、不安な気持ちを抱えたまま、誰とも出会わないように【王の間】を出て、家奴隷の宿舎へと戻った。