6-2
「ハリーファのことを考えているのか?」
宰相の寝所で、隣に居るジャファルにそう言われ、リューシャは主人に目を向けた。さっきまで小さくしていたランプの灯りを、お互いの顔が見えるように大きくした。
ジャファルはいつものように居丈高な態度でリューシャを鋭く見つめる。その視線にリューシャは抱えていた思いを口にした。
「……最初はあなた様の為にと思ってハリーファ様をお育てしていましたのに。時々ハリーファ様が、本当に自分の子のような気になってしまって……」
「十一年も育てれば、お前でも情が湧くものなのだな」
「……初めてでしたわ。ハリーファ様が問いかけても何も答えてくれないなんて……」
リューシャはハリーファの態度にショックを隠しきれないようだった。
「私にも初めて反抗的な目を向けよったぞ」
「……も、申し訳ございません……」
そんなリューシャを見て、母親の顔をする自分の女奴隷にジャファルは軽いいらだちを覚えた。
「アレの乳母にしたのは、お前の為になると思っていたが、間違いだったようだな」
この国で、宰相の妻はファールーク皇家の血を引いていなければならない。その為、例外的に宰相の女奴隷だけは奴隷から解放されても妻となることは出来なかった。
「いいえ、そんなこと! この十一年間女としての幸せを味わわせて頂きました」
「私よりハリーファの方が良かったか」
ジャファルはリューシャを鼻で笑った。
「そういう意味では……」
主人にわざと嫌味を言われ、リューシャは悲しそうな顔をしてジャファルから目をそらした。
「乳母という地位を頂けたからこそ、あなた様のお傍にこうして居られるのです。わたくしにはあなた様の妻になることも、子を産むことも出来ないのですから」
リューシャはそう言い返すと、悲哀がジャファルの妻達に対する怒りにすり替わったようで、きつい口調でジャファルに進言してきた。
「ジャファル様、ハリーファ様は一人で馬には乗れません。剣で身を守る術も持っていない」
「ああ、私が何も教えなかったからな」
「それに、今年に入ってからは病でずっと伏せっておられたのです。今回の件も、……いいえ、その病の件も後宮の誰かの嫌がらせなのかもしれない」
リューシャはハリーファの異母の仕業ではないかと示唆した。
「一度良くお調べくださいませ」
ジャファルもリューシャと妻たちの折り合いが悪いことは十分に知っていた。そしてハリーファの事をこの宮廷内で最も理解しているのはリューシャだ。今回のハリーファの失踪もリューシャの言う通り、妻の謀略なのかもしれないと思えた。
「その件はお前の気の済むようにすればいい」
「ではわたくしにお任せくださいませ」
だが正直なところ、ジャファルはハリーファが既に宮廷に帰還していることで、正直追及する気がなくなっていた。
「やはり、ハリーファを皇子として育てるべきではなかった。ハリーファは生きてさえいれば、それで良いのだ」
「ジャファル様……」
リューシャはファールーク皇国の皇族が抱える事情を少しばかり知っている。ジャファルの姉弟たちももう宮廷にはおらず、先代の宰相もさっさと位を息子に譲りもう皇都にはいない。
リューシャはそっとオイルランプに蓋をして灯りを消した。
「何故私の代で、こんな厄介事ばかり起こる……」
そう言って、ジャファルは寝台に身体を横たえ目を閉じた。
* * * * *
翌日、リューシャは医者をともなってハリーファのところにやってきた。
ハリーファの右頬には生まれつき聖痕と呼ばれる横一文字の太刀筋の傷痕がある。聖地で負った怪我はその聖痕を打ち消すかのような縦一文字の切り傷で、古傷と重なり合い、まるで十字架のようになっていた。
その刀傷を縫合するために、医者は痛み止めの薬草を勧めたが、ハリーファはかたくなに拒み続け、痛みをこらえて治療を受けた。
さらにハリーファは右手首と左足の腓骨を骨折しており、足と手はそれぞれ添え木で動かないように固定された。
ハリーファは医者とは言葉を交わしていたが、彼が帰った後、リューシャとは話そうとしなかった。
リューシャは食事の介助をしてくれていたが、食の進まないハリーファに、手が止まったままだった。
「ハリーファ様。王宮から出るなんて、一体何があったのです? 何処かへ向かおうとされていたのですか? 奴隷達の言うように、本当に東大陸へ向かわれていたのですか?」
ハリーファは乳母の問いかけにも相変わらず黙っていた。
「わたくしは誘拐ではないかと思っているのですけど、そうではないのですか? お心当たりはありませんか?」
ハリーファからは、黙ってくれと言うような視線が返ってくるだけだ。そんなハリーファの様子に、リューシャはうつむき軽くため息をついた。
しばらくして、手を付けられないままの食事を片付けようとしていると、リューシャの背中にハリーファから声がかかった。
「……乳母上」
突然声をかけられ、リューシャは驚いてハリーファに向き直った。
「聖地で、短い黒髪の女と出会ったのですが、その女がどうなったのかご存じありませんか?」
ハリーファが話しかけてきたので、リューシャの顔に安堵の色が表れた。
「短い黒髪? あぁ、あの東大陸人の娘ですね。あの娘は、不法入国の罪で奴隷として売られるようです」
ファールークに住む人々は、聖地を真ん中にして、東の大陸をフロリス、西の大陸をモリスと呼んでいた。
「あの女は東大陸人なのですか?」
「ええ、フロリスの、ヴァロニア人だそうです」
「ヴァロニア王国……」
ヴァロア王家とその臣下の十二貴族が治めるクライス信仰の大国ヴァロニア。
二百年前にファールーク皇国がシーランド王国を打ち破り聖地オス・ローを手に入れてから、現在はフロリスからの国境越えは禁止されているはずだった。
「乳母上。その女を私の奴隷にすることは出来ないでしょうか?」
ハリーファは今まで奴隷を持たず、普段奴隷に任せるようなことを全て乳母役のリューシャに委ねていた。
「奴隷に? ……そうですね、こんな状態では食事も困りますものね。わたくしから宰相様に頼んでみましょう」
その時、リューシャの顔が少し寂しそうに見えた。
リューシャが【王の間】を出ると、扉の外に立っていた兵士は扉に素早く施錠をした。
(どうして突然奴隷を持つなどと言うのかしら。しかも異国の娘を奴隷になど……)
今までかたくなに奴隷を持つことを嫌がっていたのはハリーファ自身だ。ハリーファの失踪にジャファルの妻が関わったのか、ヴァロニアが関わっているのか。それとも、ハリーファ自身も何かに関わっているのかもしれないと思い、リューシャは早々にその場を立ち去った。