58.追放者の帰郷(二)
『初夏の時間』と呼ばれる、日が一番高く上る夏の時間。
ソルとハリーファの二人は首都ローハにたどり着いた。これが聖地なら巡礼のピークの時間だ。
目の前に現れたのは城砦だった。
ハリーファは息をのんだ。聖地ほどの高さはないが、外界から隔絶する城壁が、中の様子を遮断している。
眼前に石の扉があり、固く閉ざされている。石の扉の前の地面は灰色だった。
「ここは……オス・ローと同じだ」
ハリーファが慄いた。
しかし、ソルにはわからなかった。一度だけ見た荒廃したオス・ローの風景とは到底結びつかない。ハリーファも二年前に一度だけ聖地を見ただけのはずだ。
ハリーファは恐る恐る石の扉に近づいた。過去にもこんなに扉に近づいたことがあっただろうか。頭の布を外し汗ばんだ手をぬぐうと、石の扉に両掌を伸ばす。
石の表面は熱かったが、しばらく触れているうちに、石の芯の冷たさが伝わってきた。ハリーファは扉に両手を添え石の扉をじっと観察した。そして扉の造りに気が付き、絶望した。
その石の扉は、まるで閉じられたようにデザインされた一枚の大きな石だった。この扉は決して開かれることはなかったのだ。
この扉は『絶対に開かない扉』だ。
【エブラの民】に拒絶されたかのようだった。悔しさに体が震える。両の拳で扉をどんどんと殴りつけた。
「おい、どうした……?」
ハリーファの様子に気が付いたソルが近づいてきた。
(とうとうここに戻って来た……)
ソルは内心怯えていた。この恐怖心をハリーファに気取られないようにしなくてはと唇を噛む。
「なんだこれ……、こんなんじゃ開かねぇな……」
ひどく打ちひしがれるハリーファに掛ける言葉を見つけられず、ソルは独り言のように呟く。
「ルブナンのやつらは、どうやって中へ入るんだ?」
ソルの中にも忘れかけていた記憶が蘇る。あまりにも幼くて曖昧な記憶だが、父親に抱えられて最後にたどり着いたのが、この扉の前だった。
(血まみれで扉を開けてくれと助けを求めた……でも扉は開かなかった)
ここは父親が命を落とした場所だ。父親の身体が冷たくなるまで腕の中に抱きかかえられていた記憶も、もう忘れかけていた。
(あの時、ラシードがローハを訪れていなければ、オレも父と一緒に天国の扉の方をくぐってただろうな……)
この開かない扉の前で助けを求めたのかと思うと、やりきれない気持ちになった。ソルはハリーファを気遣う余裕もなく、扉にもたれて座り込んだ。
ハリーファは膝から崩れ落ち、悔しそうに扉に額を打ち付けた。
目を閉じると【エブラの民】の儀式が鮮明に浮かぶ。儀式が行われるのは、太陽の最も高い時間だ。
長の右手の腕輪が揺れ、灰がまかれた地面は太陽の光に白く輝く。
弔いの静寂が頭の中に響き渡る
「……い!」
ソルの声でハリーファは我に返った。
「あれ……」
扉に張り付いていた二人の前に、城砦側から出てきたのか、老人がよろよろと歩いてきた。
年老いているが、端正な顔立ちに白髪と白い髭を生やしている。白い布だけの服を着て、灰の入った器を手にしていた。
【エブラの民】の末裔だ。白い服を着た一族はまだ生き残っていた。
威厳や神々しさはないが、紛れもなく【エブラの民】の姿だった。
「あれがルブナンの民……」
言葉に詰まるハリーファより先に、ソルが呟いた。
老人は扉の前の広場に、器の灰を投げ捨てた。それは、美しくもなんとも無い、もの悲しい儀式だった。そもそも儀式と呼べるのか、ただ塵を棄てているような。
戻っていく老人の後を、ソルとハリーファは追う。
老人は壁沿いに裏手へ行くと石の壁の隙間から、身体をすべりこませ、内側から隙間に石をはめ込んだ。
老人の力でも動かせる石は、ソルが簡単に避けた。
ソルは中に入ろうとし、ハリーファの顔を見た。予想通り、表情に迷いが浮かんでいる。
「行かねぇなら、オレ一人で行くぜ」
「いや、俺も行く……」
壁の隙間から中に入ると、まだ近くにいた老人は二人の侵入者を見て悲鳴をあげた。
【エブラの民】も外では声を出さないが、中では話すのだ、普通の人と同じように。
悲鳴は乾いていた。
「……その瞳、裏切り者のアスワドめ! 裏切り者め!……もう、ここはお前たちの帰る場所ではない! 出て行け!」
老人は骨ばった指でソルを指し、声をからして叫んだ。
「オレはアスワドじゃねぇ」
「嘘をつくな! その瞳の色は【天使】の血筋!」
老人の目がハリーファに移ると、血の気が引いたように後ずさって、その場に尻もちをついた。
「あぁ、【悪魔】……」
今度は震える指先をハリーファに向けた。
「わ……わしも……とうとう、死ぬのか……?」
老人の声は震え、瞳には理性を失った恐怖が浮かんでいた。
その目がハリーファを捉えると、まるでこの世の終わりを告げる鐘の音を聞いたかのように身を震わせた。
この男は本物の【悪魔】を見たことがあるのだろう。
「悪魔よ……お前のせいで、我が一族は滅びるのだ……。二百年前、お前が奪った鍵のせいで……我らはお前を赦さないぞ……!」
呂律の回らぬ声が、乾いた風に乗って震えながら響いた。
「願いは……鍵だ……! あの鍵さえあれば、我らは……!」
老人は骨ばった指で地面を掻きむしるようにしながら、なおもハリーファを睨み続けた。
「扉の鍵がなければ、聖地は永遠に閉ざされたままだ……!」
怯える老人の心に耳を傾けたが、何も聞こえてこない。
「鍵?」
ハリーファは座り込んだ老人に近づき跪いた。菫色の瞳を老人の目と真っ直ぐに合わせた。
老人は、菫色の瞳に激しい憎しみをたたえながら、ハリーファを睨みつけた
「お前が聖地で奪ったという、扉の鍵だ。あの鍵がないと扉は開かない……!」
ここの扉は石の塊だ。鍵などあっても開くはずはない。
聖地で悪魔が奪った鍵とは何なのだろうか……。
「わかった、安心しろ。鍵は必ず【エブラの民】に返す」
その声は静かでありながら、揺るぎない決意が滲んでいた。
ハリーファの返事を聞いて、老人はおとなしくなった。興奮したまま、地面に仰向けに倒れ込み、息を荒くしていた。
「俺は【悪魔】じゃない。あなたはまだ死なない。生きてくれ」
ハリーファには確信があった。確かにこの老人は【エブラの民】だ。
ハリーファの中には、まだユースフの信仰心があるようだった。