57-3
ここまで来て行かないわけない。聖地に行った時と同じように、こんな機会はもう二度と訪れないのだから。
「あいつに頼め」
ハリーファは近くであやしい動きをしていた子どもを指さした。
「子ども?」
ソルは首を傾げると、少々面倒くさそうに子どもに近づいた。
「お前、ローハへ案内できるか?」
十歳に満たないくらいの少年はぎょっとして後ずさった。
「死にに行くのかよ!」
「道だけ教えてくれりゃいい」
ソルは金子をちらつかせるが、少年は頑なに首を横に振る。
「ムリだよ!」
「母親のところに戻りたいんじゃないのか?」
ハリーファが静かに言うと、少年の目が揺れた。
「……あ、仲介人がいるのか? それならいけるかも! 仲介人には手を出さないはずだ」
「少しだけ待ってやる。これで準備して来い」
ハリーファは懐から金の入った袋を取り出し、少年に差し出す。
「足りないか?」
少年は袋を開けると、目を輝かせてテントの方へと走っていった。
「……あいつ、本当に戻ってくるか?」
「俺は信じてる」
ソルは不満そうに文句を言い連ねたが、少年はすぐに戻ってきた。背中に荷物を背負っているところを見ると、母への土産を買えたようだ。
ハリーファは馬に跨った。
「仲介人の方に、いっしょに乗せて」
「ああ、来い」
ハリーファは手を差し伸べて、少年を馬上に引っ張りあげた。
まだ馬に乗っていないソルを見下ろしながら、少年は顔を曇らせた。
「ちょっ、旦那、こいつ青だ。今、こいつと一緒にいたら危険だよ。アスワドに出会ったら絶対に殺される!」
馬上で慌てる少年をソルは鋭くにらみつけた。
文句を言おうとしたが、それより早くハリーファが口を開く。
「大丈夫だ。こいつはファールーク人で、俺の奴隷だ。アルザグエの部族とは関係ない」
ハリーファの言葉を横で聞いて、ソルは目をとがらせた。
「ファールーク人? てことは、旦那、もしかして仲介人かと思ったけど、どっかの名士?」
少年はハリーファの顔をじっと見つめた。
「いいからとっとと案内しろ」
ソルは不満げに肩をすくめ、黒馬の背にまたがる。
ハリーファが「俺の奴隷」だと言ったことが、どうやら気に食わなかったらしい。ソルはラシードの奴隷であることに誇りを持っているはずだ。
「……うん、わかった。東の海側に回って行こう」
少年が道を示し、二人は馬首を東へ向けた。
砂の上を進みながら、少年は何度も後ろを振り返り、ソルの顔をじっと見つめていた。
(ん? あいつ、ズルクかと思ったけど……アスワドか……?)
表情には、疑いと困惑が混じっている。
ソルの出自を見抜いたのだろう。
以前、ソル自身が「アスワドとズルクの混血だ」と言っていたが、少年の観察眼は鋭い。
ハリーファはふと尋ねた。
「お前、さっきあいつの事をズルクだと言ったな。なぜそう思ったんだ?」
少年は当然のように答える。
「顔見りゃわかるだろ?」
「顔? そうなのか?」
ハリーファは隣を行くソルの顔をじっくりと見つめた。
端正な顔立ちだ。顔は小さく、布で髪を隠して黙っていると性別すら曖昧に映る。弔いの表情は神々しくもあった。皇宮で初めての会った時は、サライと見間違えたくらいだ。
だが——部族の違いを見抜く要素がどこにあるのか、まったく分からない。
「俺には全くわからないな」
「オレもファールーク人だから、アルザグエの部族の違いなんてまったくわかんねぇよ」
ソルがぼそりと言い、ジロジロと自分を見てくる二人をにらみつけた。
少年は納得いかないように目を細めるが、それ以上は何も言わなかった。
やがて三人は、海岸沿いから砂漠へと足を踏み入れた。
ファールーク皇国とアルザグエの間に広がるのは——死の砂漠。
見渡す限り砂。
遠くの地平線には陽炎が揺らめき、空と大地の境界線が曖昧に溶け合う。
まるで水面のように歪む地平を見つめながら、ハリーファは無意識に唾を飲み込んだ。
果てしなく続く、砂の海。
風景は単調で、音さえも吸い込まれていく。
聞こえるのは、馬の蹄が砂を踏むかすかな音だけ。
——静寂が、耳に痛いほどだった。
ソルはだんだんと息苦しさを覚えた。砂除けをずらしぽつりとつぶやいた。
「砂漠には、砂しかねぇ。動物も、人も、国もねぇ。ただあるのは、死だけだ」
その声は、いつになく低く、沈んでいた。
「ここはこの世で、一番天国に近い場所だ」
ハリーファはソルの言葉にじっと耳を傾ける。
(そうだよ、砂漠じゃ金も身分も役に立たないんだからな)
金はしっかり受け取り、白人仲介人(と勘違いしている)に同乗する少年の心の声が聞こえ、ハリーファはくすりと笑った。
砂漠を越えると、景色が少しずつ変わり始めた。短い草が点在し、砂漠とは異なる風景が広がる。
砂漠の旅も終わり、子どもは馬から下りた。これ以上危険な地区には入りたくないようだった。
「ローハは、ここからも少し東だよ」
少年はそう言い残し、駆け足で去っていく。
ハリーファはその背中を見送ると、ソルに目を向けた。
「……お前の親が、アスワドじゃなかったか?」
少年がいる間は口を閉ざしていたソルが、小さく息を吐く。
「……ああ、母親がな」
「その母親とは、話ができないのか?」
ハリーファは、アスワドの暴挙を止める手がかりを探していた。
しかし、ソルは首を横に振る。
「もうとっくに死んでるぜ。オレを産んだ時にな」
初めて聞く話だった。
だが、こんな時にハリーファとソルの妙な共通点が浮かび上がるとは——思ってもいなかった。
「じゃあ、父親は? ズルクの」
「死んだよ。アスワドに殺された」
その口調は、まるで他人事のように淡々としていた。
そこには怒りも、悲しみもない。ただ、何の感情も湧かないほど、遠い記憶なのだろう。
しかし、ソルの出自は今のアルザグエの状況にとって最悪の立場だと気付き、ハリーファは言葉を失った。
「部族の問題なんざ、オレには関係ねぇ。ルブナンの都へ行くんだろ?」
そう言い捨てると、ソルは先に馬を走らせた。
だが、その横顔には、夜の闇よりも濃い影が落ちていた。