57.追放者の帰郷(一)
シナーンたちが聖地へ発った後、ハリーファは皇宮の水利施設を通り、外へと抜け出した。皇宮内の抜け道はすべて把握していたが、この通路を使うのは初めてだ。足音を忍ばせながら進む。
通路の出口が近づくにつれ、心臓の鼓動が速まる。しかし、一歩外へ踏み出すと、身体が軽くなったように感じた。
夕暮れの街は静かで、人の往来はまばらだ。ソルと合流する深夜までにはまだ時間がある。ハリーファは当てもなく歩き回った。家の中から、くぐもった話し声が聞こえてくる。
【王】が皇宮を離れると、国境にある見えない壁が消える――アーディンと悪魔が交わした契約の秘密を知った今、外へ出るチャンスはシナーンのいない今しかない。
もし今回の事がシナーンにバレてしまったら、ハリーファは二度と自由にはなれないだろう。そして第二皇子という立場で生まれたこの人生を逃せば、次は足枷をつけられ、【王の間】に縛られ続けるだろう。
今、本当に、契約は不履行になっているのか?
聖地は東大陸から侵攻を受けるような危険な状態なのだろうか?
あの場所が本当に【エブラの民】の聖地と呼べるのだろうか……。
それならば、このまま皇宮へ戻らなくても良いのではないか。
だが、ジェードのことを思うと、それもできなかった。
祖国へ帰ることを諦め、自分のそばに居たいと言った彼女を置き去りにすることはできない。
今回だけは戻る。そして、もう一度ジェードを連れ出せばいい。
それに、もう一つ気がかりがある。
ソルがジェードの身柄と引き換えに取引を持ち掛けてきたことだ。密かにジェード本人に帰国の話をしたということは、ヴァロニアとも取引をしている可能性が高い。
ヴァロニアの誰かが、ジェードを探しているのだ。
ハリーファは夜の街を見上げ、ゆっくりと息を吐いた。
まずは、【エブラの民】に会うことが先決だ。
サンドラの城下街の合流地点にハリーファは早めに到着した。
日が落ち、涼しくなるにつれ、街の通りには人の流れが増えていく。人ごみに紛れるには、ちょうどいい時間だった。
「ずいぶん早かったな」
聞き覚えのある声に振り返ると、影からソルが現れた。
約束の時刻よりもかなり早い。ハリーファの予想通りだった。自分の来た方向から皇宮の抜け道を探られないためには、先に着いておく必要があった。過去の経験から、先に来たものが勝ち後から来たものは負ける。
白い布を巻いたソルの姿は、まるで【エブラの民】のようだった。彼の白いターバンが、白髪のように映る。
「城門は四六時中監視されてるのに、よく抜け出せたな」
外界では決して声を発さないはずの【エブラの民】が、言葉を発した。それを聞いたハリーファは、はっと我に返る。
「……どうせ抜け道の一つや二つあるんだろ?」
「……あってもお前には教えない」
ソルは肩をすくめ、大きく息を吐いた。
「ま、いい。ほら、着がえだ」
ハリーファは、旅の準備を何一つしていなかった。この旅の支度はすべてソルに任せるしかない。しかも、【王の間】の鍵の複製を頼んだ件もある。
今回ばかりは、ソルに借りが多すぎた。
受け取った旅装束を、いつもの服の上から羽織る。砂が入らないように、袖口や裾をしっかりと縛った。
二人はソルの用意した馬で街を出た。
「ラシードにはどう言ってきたんだ?」
「今回は少し暇をもらったんだ。ラシードの事は気にしなくていいぜ」
「お前が良くても、俺には一日と半分しか時間がない。せっかく早く出発したんだ、急ぐぞ」
ハリーファが巧みに馬の速度を上げると、ソルも後を追うように加速した。
「第二皇子様は馬にも乗れないって噂だったんだけど、案外乗れるもんだな」
「これでお前の情報は正しくない事が証明されたな」
ソルはカチンときたのか、こちらをじろりと睨みつける。
「前に聖地に行ったって時も、こんな風に抜け出したのか?」
聖地での話で、今まで『抜け出した』と話したことは一度もない。ソルは自分の心は隠し続けるくせに、言葉巧みにハリーファの秘密を聞き出そうとしてくる。
これまでは適当に無視して流してきたが、今回はソルに借りが多すぎる。だから、わざと誘いに乗ることにした。
「あの時は、皇宮から馬を連れ出したせいで、すぐに見つかった。でも今回はお前が合鍵や馬を用意してくれただろう? おかげで抜け出すのも簡単だったし、戻るのも楽勝だな」
ハリーファの言葉に、ソルの目が驚きで見開かれる。
「やっぱりあの事件は誘拐じゃなくて、自分で抜け出したんだな……。でもそれなら、聖地で大怪我を負ったって言うのは、誰にやられたんだ? その感じだと、馬から転げ落ちたわけでもなさそうだしさ」
うるさいやつだ。まだ旅は始まったばかりなのに、この先面倒だと思いながらハリーファはソルをちらりと見た。
「あれは、宰相にやられたんだ」
「宰相? ……お前の父親に?」
ソルは驚いた表情を浮かべたあと、すぐに哀れむような目を向けてくる。宰相から疎まれているとでも思ったのだろうか。宰相とラシードが似ていると言っていたから、そのせいもあるのだろう。
心を読めないソルの本心はわからない。
「その顔のキズも、父親にやられたのか?」
「いや、これは剣の使い方を誤っただけだ」
「ふーん。キレイな顔なのに、もったいねぇな」
このとき、ソルの視線がハリーファの腰元に向けられた。剣も短剣も、何も持っていないことに気づいたようだ。
「剣を使えないって方の噂は、事実なんだな」
説明するのもごまかすのもだんだん面倒になり、ハリーファはふんっと鼻を鳴らし、視線を前に戻した。
「国境に着いたら案内人を探す。馬が通れる道は、オレもよくわからないんだ」
「お前、アルザグエの出なんだろ? それなのに知らないのか?」
「十年以上前に出たっきりだ」
「じゃあ、久しぶりの里帰りか」
今度はソルがムッとして口を閉ざした。
二頭の馬は、砂の上を悠々と進んでいった。
その夜は、空に浮かぶ月が明るすぎて、星は見えなかった。
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