56.無主の入り江にて
北の海の海岸沿いに、東と西の王皇貴族が会談を行う秘密の場所がある。
そこは、シュケム北部からは小船で、東からはヴァロニア王家所有の森を抜けると辿り着くことのできる、深く切り込んだ入り江にあった。
森を抜け、ギリアンの目前に広がるのは、切り立った崖だった。
ギリアンは馬から下り、同行の五人の騎士のうち二人を伴って徒歩で海岸線へ向かった。潮を含んだ風と、穏やかな波の音が耳に届く。
崖の岩肌には、海岸まで降りれるように、石を削って階段が作られていた。この階段を降りた先に、東と西の会合場所がある。
ファールーク皇国はギリアンが生まれるずっと前から鎖国されているので、ギリアンの父王も、おそらくその父も、ここへ足を運んだことはなかっただろう。
ヴァロニア領土に接する土地ではあるが、ヴァロニアの領土ではない。その理由は、この小さな入り江は日暮れ前に海に沈んでしまい、夜が明けるまでは完全に姿を消してしまうからだ。
「本当に、こんな場所があったなんて……」
ギリアンは潮風を感じながらつぶやいた。崖の上から浜辺を見下ろすと、遠くに異国の服を着た二人の人影が見える。
石段を下りるにしたがい、二人の姿がはっきりと見えてきた。
ギリアンと二人の騎士が石段を下りてくるのを見て、二人はヴァロニア側の崖の方に少し歩み寄ってきた。しかし、協定で定められている場所で二人は立ち止まった。
二人とも頭に布をかぶっている。小麦色の肌の少年と、もう一人も小麦色の肌で、こちらは少女のようだ。ギリアンには二人ともまだ子供のように見えた。まだ立っている姿しか見ていないが、その立ち居振る舞いや醸し出す雰囲気は、庶民ではないことが見て取れる。
少年の方が自分をここに呼び出したファールーク皇国の第一皇子シナーンなのだろう。小麦色の肌の二人は、三人のうちの誰が主君かを見抜いて、ギリアンの姿をしっかりと黒い瞳でとらえていた。
ギリアンは二人の前にたどり着くと、フードを後ろにずらし顔を見せた。黒い髪が生ぬるい春の潮風にゆれる。
ギリアンを見て、小麦色の肌の少年が先に口を開いた。
「貴殿がヴァロニア王太子、ギリアンか」
少年の歳はホープと同じくらいだろう。ギリアンの黒髪に驚いた様子はない。金色の髪しかいないヴァロニアではこうはいかないだろう。それだけで、ファールーク皇国が多民族が暮らす国家であることがうかがい知れる。
「遅れてしまったかな?」
「いや、遅れてはいない。我々ファールーク人は時間には遅れないのでな」
少年の言っていることは、ヴィンセントから教えてもらった通りだった。ギリアンの先祖、ヴォード・フォン・ヴァロアも、幾度かファールークの王とこの場所で会合を行った。ヴァロニア王国とファールーク皇国の会談では、ファールークは必ず先に現れていたそうだ。
「僕は、」
「シナーン・アル・ファールークだ」
ギリアンが名乗ろうとしたが、少年はさえぎって先に名乗った。
「……ギリアン・フォン・ヴァロアだ。君の呼び出しに応えてここに来たが、僕は自分の身分を証明できるものは何も持っていない。ランスの印章も敵に奪われてしまってね」
ギリアンの言葉に、少年は大人びた表情で笑った。
「ここに来たという事が、貴殿が少なくともヴァロニア王家の遣わした者だという証明にはなる」
シナーンの言葉に、ギリアンは口を閉ざしたまま二回うなずいた。
そもそもこの場所は、ツンゲン領横の王族所有の森を、夜中のうちに抜けなければ辿り着くことが出来ない場所だ。ヴァロア王家内でのみ密かに伝えられている。
入り江にはちょうど向かい合わせの椅子のような岩場があった。ここにかつての王たちが座ったのだろう。
シナーンとギリアンは岩の椅子に腰掛けた。それぞれの同伴者たちは黙ったまま主君のそばに控えた。
「初めに言っておくけれど、僕はヴァロニアの王ではないし、君だってまだファールークの宰相ではない。これは正式な会談とは言えない」
「私の方は父親が退けば即宰相となるが。貴殿の方は違うのだな」
ギリアンはシナーンの謗言ともとれる言葉は、事実であるため聞き流した。今回、ヴィンセントには、生まれながらに上に立つ教育を受けた若者のふるまいを見て来いとも言われている。
「シナーン皇子、君は宰相の後継者だろうけど、王と宰相では対等ではないんだよ」
年下の少年に返した言葉に、ギリアンは自分の中にもわずかに王族としての奢りがあることに気が付いた。
そんなギリアンの心を知らないシナーンは、恐れることなく言い返してくる。
「我が国の王は実権を放棄している。それにファールークは宰相こそが【王】の血族だ。宰相の言葉は王の言葉と同じなのだ」
「ヴァロニアにはファールークの事情はほとんど入ってこないんだ。僕は今会ったばかりの君の事を、まだ信用したわけではないよ」
ギリアンの言葉に呼応して、後ろに居た二人の騎士は剣の柄に手をかけた。
カチャと金属音が聞こえると、ギリアンは左手を挙げて二人の動きを止めた。
相手は子供二人だ。シナーン皇子の方は腹に短剣と腰にも剣を帯びているが、共の方はわからない。先に到着したファールーク側は、射手が遠くで弓を番えてこちらを狙っているはずだ。
「突然あんな手紙を寄越して、僕をここに呼び出した目的を聞かせてもらえるかな」
年下の皇子は、ギリアンを見定めるようにじろじろと眺めてから問いに答えた。
「ファールークは、貴殿の王位継承に援助しようと思っている」
予想外のシナーンの提案に、ギリアンは驚いて目を見張った。ヴァロニアにはファールークの情報は入ってこないにも関わらず、ファールーク皇国にはヴァロニアで王太子派と反王太子派とが王位を巡って争っていることも知られているということだ。
「古の王ユースフとヴォード・フォン・ヴァロア王は誼を結ぶ関係だったのはご存知かな。我々はシーランド王が二重王国の王になるよりも、生粋のヴァロニア人である貴殿が次の王になることを望んでいる」
シナーンの言葉にギリアンの心臓が強く打つ。
自分の黒髪は生粋のヴァロニア人と言えるのだろうか。ギリアンは動揺を悟られないように深く呼吸した。
「君は我が国の現状だけでなく、昔の事にも詳しいようだね。ヴォード王がファールークのユースフ王と親交があったという事は僕も知っているよ。彼は若くして亡くなったけど、生前はまるで兄弟のように良くしてもらったと聞いている」
「そのユースフ王の同胞の弟が【宰相】だ」
先程ギリアンの言葉がシナーンには引っかかっていたのだろう。
しかし、今ファールーク側が王太子派に着くことで、得られる利益があるとは思えない。
「それで、その見返りに求めるものは?」
これが今日の本題だろう。
「東大陸から聖地への侵入を一切禁じて欲しい」