55-2
今日のハリーファはなんだか機嫌が良い。いつも翠の瞳に浮かぶ、寂しげな憂いた色は消えていた。ジェードは、深い翠色に樹々の色を思い出した。
「わたしの村はこことは違って緑がいっぱいなの。わたし村がとても好き」
つぶやくように言うと、ハリーファの顔から笑顔がすっと消えた。
「……それなのに、村に戻れなくて良いのか?」
ハリーファに言われて、ジェードは黙ってうなづいた。自分自身でハリーファの側に居たいと決めたのだ。
「……だって、わたし、ここに来るまで、緑がいっぱいあるのが当たり前で、そのことにも気がつかなかったの。ずっと村に居てたら、きっと何も知らないままだったわ。砂ばかりの聖地も、天使様の本当の御姿も、嬉しい時には涙が出るってことも知らなかった。学校ではそんなこと教わらないもの」
ジェードはハリーファをじっと見つめた。
何事もなく村で暮らしていたら、幼馴染か兄の友人とあたりさわりなく結婚をして、子を生み育て、村から出ることもなく歳を重ねていたに違いない。
それでも幸せだったのかもしれないが、人を好きになることも知らないままだったかもしれない。
「そういえば、村の外のことを知るのが出来たのは、ルー姉さんのお話でだけだったわ」
「お前の姉は、魔女の疑いをかけられたんだったな」
「うん……。でも姉さんは魔女じゃないわ。天使様がそう言ったもの」
ルースは色々なことを知っていた。多分それが原因で、ヘーンブルグ領主の館で何かに巻き込まれ魔女として殺されたのだとようやく気がついたが、死んだ姉はもう戻ってこない。
「帰らなければ、家族にも会えないぞ」
「パパとママならきっと大丈夫よ。兄さん達は二人とももう家を出て独立しているし。ホープのことだけは少し心配なんだけど」
「双子の弟か」
「そう。でも、ホープとは生まれた時からずっと繋がってるような気がするの。だから平気よ」
ジェードは弟を見るような目でハリーファを見つめた。しかし、ハリーファはホープとは似ても似つかない。
ホープは十三歳の時もジェードと背丈は変わらなかったし、いつまでたっても頼りない気がする。その点、ハリーファはいつの間にか背も高くなり、態度や雰囲気も年上のようで、そばにいると不思議と安心する。出会ってからしばらくは怖い思いをしたが、今となっては自分の心の変化に驚くくらいだ。ハリーファのことをもっと知りたくなった。
「ハリは小さい時、どんなだったの? わたしと出会う前」
「《《俺》》は、聖地に行った時以外、この囲いの外に出たことないんだ。話し相手はリューシャだけだったし、本ばかり読んでいた」
「シナーンやアーランと、一緒に遊んだりしなかったの?」
「……遊んだ覚えはないが、シナーンにやたらいじめられたのは覚えてるぞ。アーランもいじめられて部屋から出てこなくなった」
ハリーファの昔語りを聞けて、ジェードはとても嬉しくなった。ハリーファの口から身の上話を聞いたのは初めてだった。
「シナーンもアーランも、今もたいして変わっていないだろ」
「そんなことないわ。三人とも大人になったのね」
異母兄姉二人の中に自分も含められたことに、ハリーファは肩をすくめてみせた。
「そろそろ時間だわ」
休憩の終わりに気がついたジェードが立ち上がると、ハリーファも立ち上がって服の砂をはらった。
「あまり見れなかったな」
「ううん、すごく楽しかったわ!」
ジェードが心からほほえんだので、ハリーファは安心したようだった。
「猫を迎えに行こう」
そう言ってハリーファは子猫を売っていた男の所へと向かう。ジェードは慌てて先さきと進むハリーファを追った。
すると、前を歩いていたハリーファが急にふり返った。かと思うと、ジェードのそばに戻り、何も言わずにその右手を取った。
「……?!……」
急にハリーファに手を繋がれ、ジェードの顔は赤く染まった。
恥ずかしさで手に力が入らない。しかし、手と手が離れてしまわないように、ハリーファは指をからめてしっかりと握ってきた。
ジェードの想いに、ハリーファが応えてくれた。
心の奥に秘めていた、ハリーファに触れたいという想いを、ハリーファに見抜かれたのだろう。
きっと、これも誕生日の約束の続きだ。誕生日に宣言した、ハリーファに出来ることなら叶えてくれるという約束を守ってくれているのだ。
いつも冷たいジェードの手は、ハリーファと同じ温度を通り越して汗がにじんできた。それでもハリーファは手を離してくれない。胸が強く打ちすぎて少し苦しくなったが、ハリーファは気づいてゆっくりと歩いてくれた。やがて胸の奥までじんわりと熱くなる。
まるでハリーファとジェードの二人しか居ないように感じられた。
にぎやかな市場は、心地よい音楽や良い香りに包まれ、周りの景色が眩しいほど輝いた。
猫売りの男のところへ行くと、黒猫が一匹だけ残されていた。
子猫を受け取ると、二人は本宮へ向かう石畳の道を並んで歩く。
「どうして黒い方にしたんだ?」
ヴァロニアでは黒いものが魔の象徴とされているにもかかわらず、ジェードは黒い方の子猫を選んだ。ハリーファはそれが意外に思えた。
「この子が一番小さかったから心配だったの」
「猫は十二年ほど生きるぞ」
「じゃあ、二十七歳くらいまで一緒にいられるのね」
小さな子猫を落とさないように、ジェードは両手で胸元に抱きしめた。子猫は小さな爪を服にひっかけて、必死でしがみついてくる。
「あなたの名前はアサドに決めたわ」
そう言いながら、小さな額にキスを落とした。
「黒猫なのに獅子?」
「ええ。いいでしょ?」
ジェードは首まではい上がってきた黒猫を落とさないように抱きなおした。
「ジェード、お前、俺の下に戻ってくるか?」
ハリーファの言葉に、ジェードは耳を疑った。思わず歩みが止まる。
「でも、モリス信仰では解放した女奴隷がまた同じ主人の下に戻ると災いが起きるって言うんでしょ……? シナーンがそう言ってたわ」
「そんなこと構わない。俺はそんなに信心深くない」
「うそ、あんなに鏡を怖れていたのに」
ジェードの言い分に、ハリーファは返す言葉がない。
「それに、ハリが構わなくても、わたしが嫌なの。もう、ハリが不幸になってほしくない」
たとえ異教徒の教えとはいえ、教義を守らないことは気にかかる。
「それなら、俺の妻になるか?」
「えっ……」
聞き間違いではないかと、ジェードは一瞬頭の中が真っ白になった。
たしか、解放した女奴隷を妻に迎えれば天国で二倍の報いが得られるという。それなら、その方がむしろハリーファの為になるのかもしれない。
(だ、だけど……クライス信仰は十六歳まで結婚はできないわ……)
アレー村では、成人の祭りの夜に約束を交わした男女は、ヘーンブルグの領主に結婚の許可を得に行かなければならないのだ。一体どうやって許可を得られるのだろうかとジェードは困惑した。
ジェードの心の中の動揺を見てハリーファは少し笑った。
「クライス信仰はそうだったな。やっぱりお前はシナーンの女奴隷になれ。シナーンは俺よりずっと信心深いから、間違いなくそれが一番安全だ」
ジェードが答える隙もなく、ハリーファはあっさりと引き下がった。シナーンの女奴隷になるように言われ、にわかにジェードの心は冷めてしまった。
シナーンの女奴隷になると言うことは、いずれ宰相の女奴隷となる。ファールークの血を引いていないジェードはシナーンの妻になることは出来ないので、ハリーファの言うとおり、最も安全な地位と居場所を得ることになる。
そうでなければ、自由人となってこの皇宮を出てゆくしかない。それはヴァロニア人のジェードにはまだ無理そうだ。
つい先ほど、手を繋いだ時の胸のときめきはすっかり消えてしまった。ジェードは寂しくなってうつむいた。
「……ハリの為になるなら、そうするわ」
ジェードは震える声をかくし、無理やり笑顔を作って答えた。異能のおかげで、ジェードの心と表情が一致しない事に気づく。出会ったころは、ひどく頑なだったジェードの心が、今は壊れやすい硝子のように感じた。
「……嬉しくないなら、そんな顔をするな」
ハリーファも、もう笑ってはいなかった。立ちつくして動かないジェードの耳元に両手をそえ、ハリーファはジェードの顔を挟む。
「ジェード、俺は、お前を離さない」
ハリーファはジェードの眼前でささやくと、唇ではなく、こめかみにそっと口づけた。
二人の間で、子猫がミイミイと鳴いていた。