55.誕生日の約束
一昨日から、城門の前の広場には鮮やかな朱色の絨毯が敷かれ、人と物と動物であふれていた。にぎやかな喧騒が辺りに響いている。
南の国から春の行商隊がやって来たのだ。
ジェードが宮廷に来てから行商隊がやって来るのは五回目だ。春の行商の方が動物の赤ちゃんが多く、ジェードはそれを見るのを楽しみにしていた。
まるで故郷の村の祭りを待ちわびるように、特に今回は、この日が来るのを心待ちにしていた。
この三日間、ジェードは昼の休みに一人で門前広場に足を運んでいた。
今年の誕生日、ハリーファと一緒に行商隊の市場を見に行く約束をしたのだが、昨日も一昨日も、昼の休みの時間にハリーファは市場に現れなかった。
空を見上げると雲一つない快晴だ。雨はまったく降りそうにない。周りは賑やかで、果物や香木などの甘い香りが漂っているが、ジェードの心の中は曇っていた。
今日で行商は最終日だ。やはりハリーファの姿を見つけられず、ジェードは昨日一昨日と同じように、片隅で子猫を売っている男の所へ向かった。
気落ちした心を悟られないように、明るい声で男に話しかけた。
「こんにちは」
「また来たのかい」
行商の男が座っている横の丸いかごの中に、芥子色と黒色の子猫が一匹ずつ入れられていた。子猫達はまだ大人の片手にすっぽり埋もれるくらい小さい。昨日は全部で四匹いたのだが、二匹は買われていったのだろう。
ジェードが手を差し出すと、子猫は二匹ともジェードの腕にしがみついてくる。
「どうだ? 今日が最後のチャンスだ。猫は餌を与えていれば遠くには行かないし、疫病からも守ってくれるんだ」
男はにこやかに話しかけてきた。
ジェードがしゃがみこんで男の話を聞いていると、その背後に誰かが立った。
「買ってやろうか?」
聞き覚えのある声に、ジェードは驚いて後ろの人物をふり仰いだ。
少年が上からジェードを覗きこんでいる。布で髪を隠しているが、宝石のように深い翠の瞳がジェードを見つめた。
「ハリ……」
ジェードが立ち上がろうとすると、ハリーファはジェードの手を取り、立たせてくれた。
しばらく会わないうちに、ハリーファはまた背が高くなった気がする。背丈に気を取られていると、ハリーファの手がジェードの首元へと伸びた。白い指が鎖骨あたりの襟にそっとふれる。
「なるほど、こうやって身に付けておくのか」
ハリーファが誕生日にくれた小さな四角いボタンのことだった。指がふれたところはぽっと熱くなり、胸が高鳴った。
「どっちにする?」
ぼうっとするジェードをほおって、ハリーファはしゃがむと、かごの中の子猫達に目を向けた。どうやら本当に子猫を買ってくれるつもりのようだ。
「えっと、じゃあ、黒い子を……」
ジェードの選択に、ハリーファは少し驚いたようだった。
「後で迎えにくるから、それまで預かっておいてもらえないか」
そう言いながら、ハリーファは男と金子のやり取りを済ませた。
ハリーファに会えたのは二月ぶりだ。マリカの居る【王の間】には足を運びづらかったし、毎日海鳥に餌をやりに行っていたが、そこにハリーファが来ることは一度もなかった。
「ありがとう、ハリ。それに今日も、約束を守ってくれて……」
ハリーファの顔を見ていると、悲しいわけではないのに不思議と瞳が潤んだ。
「生誕日に、誓っただろ?」
昨日と一昨日と来れなかった理由は知らないが、ハリーファの明るい表情を見て、ジェードは目元を指先でぬぐった。
そして、ハリーファに会えたら一番に言おうと決めていたことを口にした。
「あの、前のヴァロニアの話だけど……、あれは、わたしのためにソルに頼んでくれたんでしょ」
「え、あぁ……、うん……」
その話はしたくないのか、ハリーファはジェードから目をそらした。
あの時、ハリーファにとって自分はもう必要ないのだと思い、辛くなってひどく落ち込んでしまった。どうしてそんな気持ちになったのか、その理由をジェードは日夜考え、そして気がついた。
だから、ハリーファに伝えたいのは、ジェード自身の気持ちだった。
「でも、わたしは……」
口にするのをためらいながら、ジェードは真っすぐにハリーファを見つめた。そして、心の声でハリーファに思いを伝える。
(……戻りたくない……、ハリと一緒に居たいの)
ジェードの心の言葉に、一瞬ぼう然としたハリーファだったが、すぐに冷静を取り戻し、少しだけ悲しそうに笑った。
「ジェード。前に駱駝に乗りたいと言っていなかったか?」
「え、えぇ」
悲しげな表情はすぐに消えたが、ジェードの心の声には何も答えてくれない。上手くごまかされたのかもしれないが、今日は誕生日にした約束の日だ。一緒に市場を見に行きたいと言うジェードの願いが叶った。
さらに、ずいぶん前に駱駝に乗りたいと言っていたことを、ハリーファが覚えてくれていたことも嬉しかった。
二人は城門の横の馬停めに繋がれている駱駝のところへ向かった。
「駱駝に乗せてやってくれないか」
ハリーファが駱駝の飼い主と交渉している間、ふと横手を見ると馬停めのすみの方にソルの黒馬アキルが繋がれていることに気がついた。ジェードは見える範囲で市場内を見渡してみたが、ソルは見当たらなかった。
「ジェード」
呼ばれてふり返ると、そこには大きな駱駝がひざを曲げて座り込んでいた。
* * * * *
ハリーファはふらつくジェードの手を取った。駱駝から降りた後、よろよろしているジェードの様子を見てハリーファは子どものように笑っている。
「大丈夫か?」
「あんなに揺れるなんて思わなかったわ。おしりがすごく痛い」
ハリーファはジェードの腕を支えて建物の壁まで移動した。歩いていると、商人がジェードにはわからない言葉を投げかける。そしてハリーファに椰子の実を半分に割った丸い器を手渡した。
ジェードは壁にもたれるように地面に座りこむと、大きく息を吐いてひざを抱えた。
ハリーファは途中で受け取った器に口をつけた後、ジェードにそれを手渡した。
ころんとした器をジェードは両手で受け取った。器の中には白濁した水が入っている。
「椰子のミルクだ」
白い水を口に含むと、ひどく甘ったるい匂いが鼻をついた。こんな甘味のものを口にしたことがなく、ジェードは顔をしかめた。
ハリーファは不思議そうにジェードを見つめる。
「嫌いなのか?」
「こんなの初めてで……」
都会の街や貴族達の生活は知らないが、アレー村にはこんな甘味の食べ物はない。
顔をしかめるジェードを見てハリーファは笑った。
ハリーファの顔を見ると、宝石の様な翠の瞳がジェードを見つめている。
「お前、どうして羊飼いになった?」
突然の質問に、ジェードは何を今さらそんなことを聞いてくるのだと思いながら答えた。
「村で三頭だけ馬を飼っているの。それで、女が就ける仕事で馬を使えるのが羊飼いだけだったのよ」
「羊じゃなくて、馬の方が好きだったのか」
そう聞いてハリーファはまた笑う。笑いながらジェードの向かいにあぐらをかいて座った。服が汚れることは気にしていないようだ。
「羊だって好きよ」
「猫じゃなくて馬を買えば良かったな」
しかし、羊飼いになった本当の理由は、九歳で学校に行かなくなったジェードの面倒を見てくれたのが、たまたま羊飼いの大人だっただけだ。自分で選んだ職ではない。言わなくても、ハリーファにはジェードの心から真実が聞こえているだろう。