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1218年の記録には、アーディンの今際の言葉が記されていた。
シナーンの心からは悩みが漏れ聞こえる。
(ハリーファが皇宮で大人しく生涯を過ごす事を望むのなら、それでも良いと思っていたが。それ以外にハリーファをどう扱うのが最善なのだ? 【王】と兄弟に生まれた為に……)
シナーンは今まで【王の間】に閉じ込められていた【王】の生涯を知らないからそんな風に思うのだと、ハリーファは奥歯をかんだ。だが、シナーンもまだ十四歳だ。ハリーファ以外の【王】を見たことがないので当然だろう。
シナーンに本当のことを答えても良いのかハリーファは迷った。兄弟を信用したい気持ちと、裏切られたくない気持ちとで、ハリーファの心は揺れた。
「俺を……、自由にしてくれ」
奥歯をかみながら、ハリーファは答えた。
「……この宮廷内であればどこへでも自由に行けばいい。本宮に入る事も許可してやろう」
「外に出たいんだ」
「それは許さぬ。【王】を宮廷に留め置かなければ、聖地は我が国の領土ではなくなってしまう」
ハリーファは拳を握りしめて感情を抑え、言葉を続けた。
「なら、三日だけでいい。以前俺が聖地に行った時、あの時、何も起こらなかったじゃないか」
ハリーファの言い分に、シナーンは眉をひそめた。
「何も起こらなかった? ヴァロニア人が密入国し、兵士が聖地で殺されたと言うのに?」
シナーンもハリーファの脱走とジェードの国境越えには関連があると言いたげだった。
「お前も読んだだろう。この記録には『【王】を皇宮に留めておく限り、聖地はファールークのものとなり、ファールークの国は何者からも守られる』と【悪魔】との契約がはっきりと記されていた」
しかし、記録にアーディン自身の想いは何も記されていなかった。
「オス・ローはもう聖地なんかじゃない! お前は、あのオス・ローを見ていないからそんな事が言えるんだ。あんな場所、もう誰の心の拠所でもない!」
ハリーファは立ち上がって声を高めた。
「オス・ローがお前の言う心の拠所でなくとも構わん。私はこの国の安寧を望む」
「俺達が平和だと思っているのは衰退だ。この国だけが、【悪魔】の呪縛で時代から取り残されているんだ」
ハリーファは頑ななシナーンに響きそうな言葉を探す。
「……【王】はこの国の人柱だと、それに、お前は自分も犠牲者だと言った。だが、ファールークに住む者全てが犠牲者だ。【王】と【宰相】の我慾でいずれ滅びるぞ!」
弟の怒りの理由がわからないシナーンは、淡々と続けた。
「ハリーファ、この資料にはアーディンの遺志は記されていない」
「……アーディンの、遺志?」
アーディンの名を聞いて、ハリーファの心がズキンと痛む。
「私は幼い頃から父上から聞かされていた言葉がある。この言葉は何処にも記録されておらず、歴史家も知らない。当然、この資料にもその事は書かれていなかった。他の者に聞かせてはならない、宰相だけが代々引き継ぐ言葉だと思っている。それは……」
シナーンが口に出すより先に、その言葉の続きがシナーンの心から聞こえ、ハリーファは手で顔を覆った。
「『来世で償え』だ」
シナーンの言葉と一緒に、ひざから床に崩れ落ちる。
「……来世で……っ」
シナーンの口から出たアーディンの言葉に、顔をあげることができなかった。右の頬をアーディンに切られた、あの時と同じ感情が沸きあがる。
「ハリーファ、【王】と【宰相】は共犯者だ。私達ファールークの一族は神殺しの子孫だ」
(神殺しの子孫は代々呪われる)
ファールークという国は、父親から自由になるためにユースフとアーディンが共に興したのだ。
しかし、歴史はねじ曲げられていた。ハリーファは真実を知っている。
「シナーン……、ユースフもアーディンも父親を殺してなんかいない。ファールークは病で死んだんだ。俺達は呪われてなんかない」
シナーンは愕然とした。
「神殺しが誤りだと言うなら、【王】の罪とは一体何の罪だ? 私たちは何を償わねばならぬのだ? 私は【王】が犯した罪が何なのか知りたくて、【王】が死んだ年や他の年も全て調べたが、どこにもそのような記述は残されていなかった。ハリーファ、お前は知っているのか?」
ハリーファはなんとか声を振り絞った。
「ユースフの罪は、【エブラの民】と、聖地を、滅ぼしたことだ……」
しかし、シナーンは納得できないようだった。
「確かに聖地が侵攻されたのは【王】の時代ではあったが、ファールーク皇国が直接【エブラの民】と聖地を滅ぼしたわけではあるまい。その事は歴史を紐解けばわかるはずだ」
正しく歴史を学んだシナーンは否定したが、ハリーファは頭を横に振った。ユースフの罪は、【エブラの民】のサライと間違いを犯したことだ。それが【エブラの民】が聖地から姿を消すことになった事の発端だ。
「【エブラの民】に聖地を還さなければならない……」
「【エブラの民】に聖地を還す?」
シナーンはくり返してつぶやいた。
(しかし、滅びたという【エブラの民】に、どうやって聖地を還すというのだ……)
シナーンはしばらく押し黙って思案に暮れた。ハリーファはようやく顔をあげ、シナーンを見あげた。
(……まさか、その為に【宰相】は聖地を他国の侵攻から守っていたとでもいうのか……)
自ら共犯者になると言ったアーディンの事だ。シナーンの考える通り、アーディンの契約は、【悪魔】と契約したため決して天国に行くことのないユースフを想っての現世への思い残しだったのかもしれない。
数刻の後、シナーンが口を開いた。
「お前を三日間自由にしたところで【エブラの民】に聖地を還す事が出来るとは思えん」
現実はシナーンの言う通りで、ハリーファは押し黙った。
「【宰相】の呪縛を解き、【エブラの民】に聖地を還せば、ファールーク皇国はどうなる?」
過去の記録に【王】の死後数カ月、生まれ変わった【王】を探し宮廷に連れてくるまでファールークは凶荒にみまわれたことが書かれていた。
そして、ハリーファが抜け出した時には、ジェードが見えない壁があるという国境を越えることができた。
もし【悪魔】との契約が破棄されたら、他国からの侵攻を受けて、脆弱なファールーク皇国は滅びてしまうかもしれない。
しかし、呪いがとければ聖地はファールークの領土ではなくなるが、偽りの平和から解放される。この国を救うためには、この国を滅ぼすしかない。
もうハリーファにはファールークの名にしがみつく理由がなかった。その時こそ本当に父親から解放され、ようやく自由になれる気がした。
「……その時は、シナーン、お前が新しい王となる」
ハリーファの答えを聞いて、シナーンはどこか可笑しそうにくくくと笑った。
「宰相が王になるのか。それは悪くはない話だ」
しかし、言葉とは裏腹に、シナーンの心は恐れを抱いていた。
【悪魔】との契約が破棄となったとき、ファールーク皇国がどうなるのか、シナーンにも予想はついていた。そして最近、ヴァロニア国内の動きも耳にしている。
「ならばハリーファ。私も一度、自分の目で聖地を見てこよう。そして、その足で我々の始祖の国シュケムへも行ってくる。戻ったら、もう一度だけ、お前と話し合いの場を持つことにしよう。お前の処遇については、その時に考える」
(ハリーファを監禁するか、自由にするか、決めるのはその後だ)
心でそう考えながら、シナーンはハリーファを不安にさせることを考えていた。
(私はまだ婚姻もせず、子もおらぬ。もしも、私の身に何かあった場合、【王】がこの国の宰相とならねばならぬ……)
ファールークの兄弟の会合は、ここで解散となった。
後日、シナーンが二か月後に極秘に聖地へ向かう計画を立てていることを、ハリーファはマリカの心から知ることになった。