54-2
故郷の家族に思いを巡らすジェードを、シナーンの声がさえぎった。
「ジェード、お前はアーランがメンフィスに戻った後はどうする気だ?」
「どうするって……?」
突然聞かれ、ジェードは戸惑った。ジェード自身、この先どうして良いのかわからないでいた。
「天使信仰は出生に関してとても寛容であるから、今のお前の立場を許しているが、この後ハリーファの下には戻ることは出来んぞ。お前は知らぬだろうが、一度解放した奴隷が同じ主人の下に戻ったり、格下の者の奴隷になると、その主人の徳が落ちるのだ。ハリーファはその事をお前に教えなかったのか」
シナーンの言うとおり、ジェードはそのような西大陸の文化については知らなかった。ハリーファは教えてくれなかった。
シナーンの言っていることはハリーファの為を想ってのことだろう。ハリーファと違って、シナーンは信心深いところがある。
ジェード自身もハリーファには幸せになって欲しいと願っている。つまり、もうハリーファの女奴隷として戻ることは出来ないということだった。
「アーランと共にラシードの下に行くのも許さん。ハリーファの為と思うなら、お前は私の女奴隷となれ」
シナーンはアーランにジェードをメンフィスへ連れ帰らないように言いに来たのだろう。
ジェードはもとよりアーランから求められて奴隷になったわけではない。なので、アーランが自分をメンフィスに連れて帰るとは思ってはいなかった。
ジェードは何も言えず、シナーンの言葉にただぼう然としていた。
「ではな、アーラン」
そう言って、シナーンは部屋を出て行った。
シナーンが退室したのを見計らって、アルダは眠っている子を抱いてジェードのそばにやってきた。
「解放された女奴隷は、主人の妻となるか、格上の人の奴隷にならないと、主人に災いをもたらすって言われてるんだ」
そしてアーランには聞こえないようにと声を抑える。
「でも、すごいじゃない! あんたがシナーン様の女奴隷になれば、奴隷皇子様も安泰だし、それにあんたはいずれは宰相様の女奴隷ってことだよ!」
アルダはうらやましそうに言ったが、ジェードにとっては全く喜ばしいことではなかった。
* * * * *
アーランの部屋を出たシナーンは、一つ階段を上り、自分の私室へと戻ってきた。
そこにはマリカと、マリカに連れられてやって来たハリーファが待っていた。金色の髪の弟は、背丈が変わらなくなっている。
「待たせたな、ハリーファ。そっちに座れ」
シナーンはハリーファを椅子に座らせると、自分も対面の椅子に腰かけた。
ハリーファはなぜシナーンに呼びだされたのか、その理由はわかっている。
シナーンやマリカの心の声は、日頃から聞こえてくる。シナーンの乳姉弟のマリカがハリーファの女奴隷になったことで、日々シナーンの動きがつかめる事は、ハリーファにとって幸運だった。
「アーランの子を見に行ってきた」
「そうか」
「ジェードも居てたぞ」
「アーランの世話をしているらしいな」
どうやらシナーンは、アーランではなくジェードに用があってアーランの部屋に行っていたようだ。この先、自分の女奴隷となるように告げたことが、シナーンの心から伝わってきた。
シナーンはジェードの話を出せば、ハリーファが何か言い出すと考えていたようだが、ハリーファはもうジェードについて自分は口出しないと心を決めていた。ジェードはもう自分の女奴隷ではないのだ。
当てが外れたシナーンは自分から口を開いた。
「お前はアーランの子は見に行ったのか?」
「いや」
ハリーファはシナーンの視線を避けるように少しうつむいた。
「俺は本宮に入るのは禁じられているし、アーランが俺とは会いたくないと言っている」
今日本宮に入れたのは、マリカに連れてこられたからだ。
シナーンは眉根を寄せた。
「アーランがお前と会いたくない? 私と違って、お前とアーランは幼い頃から仲が良かったのではなかったのか?」
「そうでもない……」
ハリーファの答えに覇気はなかった。
シナーンはマリカに外に出るように指示すると、マリカは無言で退室していった。
マリカが去ったのを確認すると、シナーンは棚から1218年の資料を取り出し、二人の間のテーブルの上に置いた。
数日前、シナーンにこの資料を渡すようにマリカに頼んでいた。だから今日シナーンに呼び出されたのだ。
「ハリーファ、お前、これをどこで見つけた?」
ラシードが持っていたと本当のことは言えない。
「……第三保管庫だ」
と、以前探したことのある保管庫を答えた。
宰相の後継者のシナーンなら、おそらく抜け道のことは知っているだろう。ユースフの記憶からハリーファが知っていることや、ジェードがその抜け道を使って外に出たことは知られたくない。
(私も第三保管庫は探させたはずだが……)
どうやらシナーンも同じ資料を探させていたようだ。その視線はハリーファをいぶかしむ。
「おそらく父上はこれをご覧になったことはないのだろう。私が父上から聞いた所伝とは少し異なる箇所があった。おそらくこちらが真実なのだろう」
「……父上に、見せるのか?」
「その必要はない。私はもう父上から【王の間】の鍵を託されたのだ」
シナーンの返事を聞いて、ハリーファは胸をなでおろした。この1218年の記録を見たら、ジャファルは間違いなく【王の間】に施錠しただろう。今までのように、宮廷内だけでも自由に動くことができなくなる。
「父上の温情に感謝するのだな。本来なら【王の間】に施錠をして【王】を監禁するべきところだが、父上はそうはなさらなかった。肉親としての主情を捨てきれなかった父上は宰相として良しとは思えぬが、父上なりに考えられての事だったのだろう」
シナーンはそう言いながら、以前ジャファルに言われた言葉を思い出していた。
(これは、決して情などではない。私には私のやり方がある)
「ハリーファ、お前の目的はなんだ? この記録を見ても、私ならお前を監禁しないと思ったのだろう」