54.アーディンの遺志
春を呼ぶ風が吹き始め、ファールークの空は砂色にくすんでいた。
二月の末に、アーランは女の子を産んだ。
赤子はとても小さく、一時は命を危ぶまれたが、無事に一月過ぎ、今はすくすくと育っている。
以前ジェードが取りに行った手紙に、夫のラシードが男と女の名前を一つずつ書いてくれていたようだ。それに従って、アーランの娘はカナンと名付けられた。
カナンが生まれてから、ジェード以外にアルダもアーランの部屋を毎日何度も訪れる。ちょうど二月前に出産していたアルダが、アーランの代わりにカナンに乳を与えている。初めはアルダが来ることを嫌がっていたアーランも、仕方なく受け入れた様子だった。
カナンがお乳を飲む間、ジェードはアルダの子を預かり抱っこする。くるりと包むように抱き、身体をゆっくり動かしてやった。小さなカナンに比べ、二月先に生まれた子はとてもしっかりしている。最近は笑い声も発するようになり、誰に対しても愛想が良い。
ジェードの村では、羊の子は三ヶ月で母親から離すので、ふと心配になった。
「ねぇ、アルダ、人間の赤ちゃんっていつまでお乳を飲むの?」
「なるべく長く飲ませるのが良いって言うけど、だいたいは次の子が出来るまで飲ませるんだってさ」
アルダからそう聞いて、ジェードは安心して顔をほころばせた。
まだしばらくは二人の赤ちゃんのお世話ができるようだ。
アーランは椅子に腰かけ、アルダの授乳の様子をじっと見ていた。カナンはファールークの正当な血を引いているため、小麦色の肌に黒い髪と瞳だ。
「毎日見てるけど、目の形もますますアーラン様にそっくりになってきましたね」
授乳を終え、アルダは眠りそうなカナンをアーランに返した。寝入りにぐずってふえふえと泣く声もまだ小さい。
「髪もきれいな黒髪になるわ」
アーランが小さな頭をなでる様子を見て、ジェードは黒い瞳を輝かせた。動物の赤ちゃんも可愛くて、毎年春を楽しみにしているが、人間の赤ちゃんを目にして、初めて母性がくすぐられた。
「わたし、末の双子だったから、今まで身近に赤ん坊がいなかったの。赤ちゃんがこんなに可愛いなんて思わなかったわ」
ジェードはとても名残り惜しそうに、アルダに彼女の子を返した。アルダの子は母親に似て、白い肌に茶色の髪にこげ茶色の瞳だ。やはり、だんだんとアルダに似てきている。
「それなら、自分の子を産むと良いわ」
アーランに言われ、ジェードはおろおろとした。
「赤ちゃんはかわいいけど、でも、わたしはまだ子どもだし、結婚もできないし」
クライス信仰では成人は一六歳なので、それまでは結婚ができないのだ。そして平民は皆、身近な幼馴染と恋愛を経て結婚をする。そんな異教の教義や慣習を知らないアーランとアルダは不思議そうな顔をした。
「あなたは他人の子でも、こうやって慈しんで育てられる。だから自分の子ならなおの事よ」
アーランにそう言われて、ジェードはリューシャのことを思いうかべた。リューシャに言われたように、ジェードも自分の子でもないのに本当に愛せるのかどうか悩んだこともあったが、その答えは今はもう出ている。きっとリューシャもハリーファを愛していたに違いない。今なら素直にそう思うことができる。
あの後、ハリーファに1218年の資料を渡した後、ジェードはハリーファと会うことはなかった。余計なことをするなと言われ、水瓶を届けに行くのも余計な事だったのかもしれないと思い、早朝に【王の間】へ行くのもやめてしまった。
きっとハリーファは自分の為にと思って、ソルにヴァロニアへ連れて行ってくれるように頼んだのに違いない。少し考えればわかったことなのに、あの時急に言われたことが、とても苦しかったのだ。
(ハリに会いたい……)
思い出してまたハリーファに会いたくなった。明日の朝からハリーファの所に水を届けにいこうかと悩んだ時、部屋の扉がノックされた。
ジェードは来客を確認しに行った。
扉を開けると、そこに居たのはシナーンの乳姉弟、今はハリーファの女奴隷のマリカだった。
彼女はジェードと同い年らしく、女だがとても武術に長けていると噂の人物だ。少しアーランに似ているような気がするので、彼女もファールークの血を引いているのかもしれない。
「シナーン様がアーラン様にお会いしたいとおっしゃられている」
ジェードに対して淡々と話すマリカの後ろに、シナーンの姿があった。
ジェードは「どうぞ」と二人を部屋に招き入れた。しかし入ってきたのはシナーンだけで、マリカはそのままどこかへ行ってしまった。
アーランの世話をするようになって、本宮に出入りするジェードは、たびたびシナーンと廊下で顔を合わせるようになった。マリカがハリーファの女奴隷としてに【王の間】に住み込んでいるのも、シナーン本人から聞かされた話だ。
シナーンが入室してきたのを見て、アルダは自分の子を連れて、ついたての向こうに姿を隠した。
「赤子とは一月で随分大きくなるものなのだな」
シナーンは座ったままのアーランに近寄ると、抱かれている赤子をじっと見つめた。
「メンフィスでの乳母は見つかったのか?」
「……いえ……」
アーランはシナーンと目を合わそうとしない。
「早く見つけるように、ラシードに督促しておけ」
「……はい……」
「父上は、ここには来られたか?」
「……いえ……」
妹のそっけない返事に「お前は相変わらずだな」とシナーンはため息をもらすと、同意を求めるようにジェードに顔を向けた。
ジェードの知るアーランはこんな風ではないので、昔の事を知らないジェードは何も言えない。
「シナーンは伯父さんだものね。シナーンとカナンも、やっぱり似てるわ」
「そうだな。確かに、お前の言う通り、不思議とファールークの一族は顔が似るものだ」
ジェードに言われて、シナーンはアーランとカナンの顔を改めて見比べた。
「ファールークの一族の中で似ていないのは、やはりハリーファだけのようだな」
シナーンはわざとジェードに聞こえるようこぼした。
嫌味っぽく聞こえたが、シナーンの話は真実である。ハリーファだけは皇族の誰とも似ていないのだ。
ジェードは自分の家族のことを思い出した。双子のホープは幼少時から女の子と間違えられるくらいジェードと似ていたし、昔はあまり似ていないと思っていた姉のルースとも、自分の年齢が姉の年齢に近づき、鏡に映る顔がだんだんと似てきた気がする。血縁とはきっとそう言うことなのだ。
(もしルー姉さんの赤ちゃんが生まれていたら、叔母のわたしにも似てたかしら?)
ルースは金髪の子が生まるかもしれないと言っていた。今より幼かった自分は天使の子だと浮かれていたが、ヘーンブルグに金の髪の人は領主しかいないはずだ。もしかすると、ルースの赤ちゃんの父親は領主ではないか。
今頃になって重大な秘密に気付き、ジェードの胸は強く打ち始めた。内緒と言われていたので、家族はルースの懐妊さえ知らないままだろう。