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言われたとおり階段をあがると、正面に二枚扉があり、その右手奥には一枚扉があった。その一枚扉の鍵穴に、アーランから預かった鍵を挿した。カチャリと小気味良い音が手に伝わる。
『私の夫が、私のベッドの上に手紙を置いてくれているはずなの。それを取ってきてくれないかしら? ソルには絶対に手紙を見られないように』
中に入って部屋を見回す。ベッドは綺麗に整えられていた。ベッドの上に手紙が置いてあると聞いてきたが、それらしきものは見当たらない。
部屋の中の棚やテーブルの上にも手紙らしきものはない。棚の引き出しの中も探してみたが、何も見当たらなかった。
きょろきょろしていると部屋の奥の角に細い扉があることに気がついた。ジェードは扉に近寄りそっと開けてみると、その扉は隣の部屋に繋がっている。
こちらも誰かの寝室なのだろう。大きめのベッドが壁際に鎮座している。誰かが今も使っているのだろうか。こちらの部屋のベッドは掛布やシーツが乱れたままだった。その横には椅子が倒れたままで、床に紙束が落ちていた。
(あれかしら?)
置いているというより明らかに散らかっていたが、念のため確認しようと、ジェードはベッドのわきに静かに近寄り、床に落ちていた紙束に手を伸ばした。
しかし、拾い上げた紙束は、アーランに頼まれた手紙ではなさそうだ。だが、この紙束の装丁をどこかで見覚えがある気がする。表紙には1218の文字が書いてあった。
ずっと前にハリーファと一緒に探していた1218年代の資料ではないか。
(この資料、どうしてここに!?)
ソルに聞こうかと思ったが、直感で聞いてはいけない気がした。
(これは、ハリが探していた物よ……)
これから自分がする行為に、胸が痛いほど強く打ちはじめる。ジェードは服の中にその資料を隠して、アーランの部屋に戻った。
とにかく、頼まれた手紙を探さないと……。焦りで手が震える。
もう一度ベッドに近づき、整えられた掛布をめくってみた。そこには何もなかったが、枕の中央が不自然に膨らんでいる。
枕をどかすと、下に薄っぺらい木箱が置かれていた。箱の表面には太陽と星を組み合わせたような模様が前面に施されている。
蓋をあけると、中には手紙らしき物が入っていた。これがきっとアーランの夫が書いた手紙なのだろう。ジェードは手紙の中は見ず、再び蓋を閉じた。
部屋を出て鍵をかけ、階段を降りる。
ソルは階段の下段に倒れるように座ってジェードを待っていた。足音を聞いて、階段を下りてくるジェードの方を見た。
「用はすんだのかよ?」
「……え、えぇ」
ソルは虚勢を張っているのだろう。まだ立ち上がることもできず、話をすることさえ辛そうだ。
「……大丈夫なの?」
ジェードは覗き込むように話しかけた。この家の者たちは、じきに帰ってくるのだろうか。
「……馬を貸すから、来た道を逆に、一人で帰れるか……?」
今日中に戻らなければいけないのだ。一人で帰るしかない。それに、一人で帰った方が、服の中に隠したものが見つからず、かえって都合が良い気がする。不安ではあったが、ジェードはうなずいた。
「でも、馬はどうすればいいの? 皇宮には連れて入れないわ」
「アキルなら、大丈夫だ。……どこで離してもここに帰ってくる」
「わかったわ」
そう言って、ジェードはソルを気にしながらも、入り口の大きな扉を出ていった。
ソルはジェードが扉を閉めると、そのまま階段で意識を失った。
帰り道、ジェードは黒馬の上で藍色に染まりゆく空を見上げた。今日は月が細いおかげで、星がいつもより明るく輝いている。東の空にはひときわ赤い星が煌いていた。
メンフィスの街を離れると右も左も砂ばかりだったが、遠くにサンドラの街が見えているので迷うことはなかった。
サンドラの城下の近くに着いたところで、ジェードはアキルに別れを告げた。
日が落ちて街の雰囲気が変わりゆく中、行きに来た道を逆に進んで、密かに皇宮へと帰っていった。
* * * * *
ジェードは岸壁で海鳥に餌をまいていた。海鳥たちは胸壁に降り立ち、少女の周りを囲む。
給餌も終わり、そろそろアーランの部屋に戻ろうとしていたところに、ハリーファが狭い石段をのぼってやってきた。海鳥たちは一斉に飛び立っていった。
「ここに来いって、どうしたんだ?」
【王の間】では、シナーンの女奴隷が、ハリーファのことを監視しているので、ジェードはハリーファに会うことは出来ない。そのため、数日前にハリーファとすれ違った際、心の中でこの場所に一人で来るように伝えていたのだ。
「ハリ、わたしアーランに頼まれて、ラシードの屋敷に行ってきたの」
「ラシードの屋敷に?」
ハリーファは目を丸くした。
「ハリに教わったことが役に立ったわ」
心を読まれ、皇宮を秘密で抜け出しソルと行ってきたことを知られると、ハリーファの表情は少し曇った。
「ラシードには会えたのか?」
ジェードは頭を横に振る。
「わたしが行った時、屋敷の人はみんな出掛けてるらしくて、誰もいなかったわ」
ハリーファがラシードに会いたがっていたことは、誕生日に聞いたので知っている。もし、自分がラシードと会えたなら、ハリーファのことを伝えようと思っていたくらいだ。
「でも、これを見つけたの……」
差し出されたものを、ハリーファは黙ったまま受け取った。紐で綴じられた紙束はアーディンが死んだ年の記録簿だった。
言葉には出さず、自分が勝手に持ってきてしまったことを心の中でハリーファに伝えた。
「これは……。ラシードが持ち出していたのか……」
ジェードはファールークの文字は読めないので、内容までは見ていない。
ハリーファから感謝されるかと思ったが、ハリーファの口から出たのは違う言葉だった。
「……ジェード、今後は、余計なことはするな」
ジェードに対して、静かに怒っているようだった。ハリーファの言い様に、ジェードはショックを隠せなかった。
(余計なこと……?)
ハリーファの言葉に、悲しみなのか怒りなのか、良くわからない感情が沸いてくる。
「……ソルが、わたしをヴァロニアに連れて行けるって言っていたわ」
ジェードの言葉には少し棘があった。
「ソルが……そんな事を?」
ハリーファは一瞬戸惑いを見せた。ハリーファは日頃嘘をつかないせいか、嘘をつくのは下手なようだ。
その反応を見て、ジェードは自分の勘が当たったのだと確信した。ハリーファとソルは、自分のことを引き合いに出して話をしていたのだろう。
ジェードがヴァロニアに帰れるように頼んでくれたに違いない。
「ハリは、わたしのことが必要だって言ってたのに、もう……必要ないのね」
ジェードの瞳に涙が浮かんだ。
(ハリの『家族』になるって言ったのに……)
自分の気持ちに動揺しながら、ジェードは逃げるように石段をおりていった。
それに、言えなかったこともある。再び【天使】の声が聞こえたことだ。
この時、ハリーファの心もひどく動揺していたことに、ジェードが気づくはずもなかった。
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「お前に頼めばどうにか出来るだろう? 報酬なら出す」
ハリーファの無茶に、ソルはあ然とした。しばらく黙って考えた後、何かひらめいたように話し出す。
「……出来ないことはねぇけどよ。高くつくぜ? 報酬は……『ヴァロニアの女奴隷』をもらえるなら受けてやるよ」
ソルの要求にハリーファはすぐに答えが出せなかった。
「……ジェードを一体どうする気だ。奴隷は奴隷を所持できないだろう」
「返事は、可か、否か、どっちかだ。後の事を、オレがあんたに言う筋合いはない」
以前は、アーランがメンフィスに戻る時に、ジェードも一緒について行けば良いと思っていたのに、心の読めないソルの言葉に決意が揺らぐ。
「……そう言えば、何故ジェードがヴァロニア人だとわかった?」
「葬儀礼拝の後で会った時に、あの女奴隷が自分から言ったんだ」
確かにハリーファは、ジェードに自身の事を誰にも言わないように口止めしたことはない。ジェードは自らの天命に逆らうかと思えば、ハリーファとの奴隷契約解除を求め今度は自らアーランの奴隷となった。
ジェードはいつでも自由だ。
ハリーファは深く呼吸し、ソルに告げる。
「残念だが、答えは否だ」
『ユースフがね、わたしのことを離しませんようにって』
ユースフはサライの願いを叶えられず、サライを離してしまった。それは間違いだった。その結果、あの悲劇が起こってしまった。
だが、違う。ジェードはサライとは別人だ。
「あいつの行く先は、あいつが自分で決めるはずだ」
「それは残念。じゃあ、交渉不成立だな」
ソルは肩をすくめてみせた。