53-2
ソルが先に皇宮を出た後、ジェードはハリーファに教えられたとおり、地下の水利設備の奥に隠された抜け道を進んだ。隠し通路だというので狭いのかと思っていたが、大人の男三人は並んで通れるくらいの広さと高さも十分にあった。
オイルランプを手に暗闇を進んでいく。ネズミがいるのではないかと思ったが、暗い通路でネズミは一匹も見かけなかった。
長い地下道を抜けると、物置のような小部屋の床に抜けた。出口は小さめの絨毯で巧く隠されている。物置の扉を開けて外に出ると、そこはさらに大きな部屋だった。家財道具が埃や砂で汚れていて、扉のそばの水瓶は干上がっている。さらにその扉を出ると、ようやく外に出た。
そこは狭い路地裏だった。人々の声が路地の先から聞こえてくる。
知らない街に行く不安もあったが、それ以上に不思議とワクワクする気持ちの方が大きい。
深呼吸をして心を落ち着けてから、ジェードは人の声のする方向に向かった。
先に皇宮を出ていたソルは、市場の入り口で黒馬とともにジェードが現れるのを待っていた。
秘密の入り口の存在をソルに知られてはいけないので、少し遠回りをしたり迷ってしまったりと、たどり着くのにかなり時間がかかってしまった。
無事に市場の入り口にソルの姿を見つけた時には、ジェードもほっとした。
ジェードの姿を見つけて、ソルは目を見開いた。
「ホントに来たな。もう来ないかと思ったぜ。いったいどこから抜け出してきたんだ」
あの抜け道の事はソルに知られてはいけない。
「こういうこと得意なの」
「その割には遅かったじゃねぇか……」
ソルの呆れた声に、ジェードは肩をすくめて笑ってみせる。
「まぁ、いいけどよ。ほら。これで髪を隠しておけ」
そう言って、自分が頭に巻いていた布を外して手渡された。ジェードは今も櫛で髪をまとめているだけだ。きっと今から向かう街も、髪を晒している人は少ないのだろう。
風に晒されて、ソルの黒い髪が揺れる。初めてあった時よりも、黒い髪はずいぶん伸びている気がした。
「ほら、乗れよ」
ソルが連れているのは、いつもの黒馬だった。
「アキル、よろしくね」
ジェードは黒馬に声をかけて鐙に足をかけた。
「よし、行くか」
ソルは慣れた様子で、ジェードの後ろにまたがった。
二人を乗せた馬は市場を離れ、砂の道を北へと向かった。
馬に二人乗りしたのはいつ以来だろうか。不思議ととても懐かしい気持ちになった。ずっと昔にこうして誰かに馬に乗せてもらった気がする。幼かった頃に、父や一番上の兄にせがんで一緒に乗せてもらったのかもしれない。
「ハリーファ皇子はこの事知ってるのか?」
真後ろからソルが話しかけてきた。ジェードは振り向かずに答える。
「知ってるはずないじゃない。わたしもさっきアーランから頼まれたばかりよ」
ふーんと返事をし、ソルは前を指さした。
「メンフィスはこのまま北に一・五ファルサクくらいだ。聖地はこの先で東に向かえば、半日ぐらいで着ける」
ソルの言葉にジェードはドキリとする。思わず北東の空を見上げた。
ヴァロニアへはどのくらいかかるのだろうと考えていたところ、心の中を読んだように告げられる。
「なぁ、オレはあんたをヴァロニアに連れていける。このまま、ヴァロニアに向かうこともできるぜ?」
その時、懐かしい声が聞こえてきた。
『ジェード、天命を忘れないで』
身体がびくっと反応し、ソルに気づかれたかもしれない。ジェードは不安を隠しながら答える。
「い、今はアーランとの約束を、守らなきゃ……」
「故郷に帰りたくねぇのか?」
幸い、ソルには気付かれなかったようだ。
「……」
もちろん帰れるものなら帰りたい。だが、ジェードはハリーファを殺さない代わりに、村に帰ることを諦めたのだ。
下唇を少しかんで、言いたいことをこらえた。
(ハリと約束したのよ……。『家族』になるって)
「ここには雨は降らねぇぜ」
考えていることを見透かされているようでむっとする。
「わたしの国では、雨は結構降るのよ。今の季節なら雪が降ってるわ」
雪……? とボソッとつぶやくと、ソルは黙った。
「ねぇ、あなたも雨を見たことないの?」
「ないな。空から水が落ちてくるなんて、想像もつかねぇや……」
北へ向かいながら、ソルも雨など降りそうにない空を黙って見上げていた。
ジェードは馬上から砂の道の風景に目を向ける。時々、低木が生い茂っていたり、大きな石があった。ジェードにはまったくわからないが、この地の風景に慣れている人々には、砂の上に道が見えているのだろう。
「……っ」
突然、小さなうめき声とともに、ソルの身体がびくりと揺れた。左手を手綱から離して左目を押さえている。
何があったのかと、ジェードは驚いてソルをふり返った。
「……気にすんな」
そう言われ、気になるが顔を正面に戻した。
しかし、しばらくすると、ジェードはソルの異変に気がついた。ソルがもたれかかってくる。必死で隠そうとしているようだが、呼吸までも苦しそうだ。
「ねぇ? 大丈夫なの?」
「いいから……、黙ってろ……、道ならアキルが知ってる……」
ソルはそう言って手綱をジェードに渡した。そして、申し訳なさそうに、ジェードにもたれかかる。
その姿が、本当に苦しそうで、揺れが身体に障るのではないかと、ジェードは速度を落とし、アキルをゆっくりと歩かせた。
ソルの言った通り、道を知っているアキルは真っ直ぐに屋敷に向かっている様子だった。
街に入ると時々道行く人に声をかけられ、ジェードもソルの屋敷への道筋を知ることができた。
アキルに連れてこられた屋敷は、馬が通れる程度に門扉が開いていた。
ジェードはどうにかしてソルを馬からおろすと、肩を貸して入り口の扉を開けた。
大きな木の扉が開き、ホールに外からの光の影ができる。
「すみません! 誰か!」
広い屋敷にジェードの声が響く。だが誰も出てこなかった。
「……この時間は、みんな、外に……」
ソルは苦しそうに口を開いた。
「お水はどこ?」
ソルを床に転がし、入り口の水瓶にジェードは駆け寄る。水瓶の中の水の量がとても少なかったが、杓を使って水をすくうと、こぼさないようにソルに届けた。
「皇女さんの部屋は、階段をあがって、右の一つ目だ。さっさと、行ってこいよ……」
そう伝えると、ソルはふらふらと立ち上がり、壁を頼りにしながら一階の奥へと姿を消した。