53.皇宮の扉を超えて
一月の半ば、皇宮を取り囲む海沿いの城壁の上に、二人の少年の姿があった。
金の髪のハリーファと、黒髪に黒い肌のソルの姿はとても対称的だ。
ジェードが餌付けをしたせいで、白い大きな海鳥たちは、人の姿を見つけると、キューキューと鳴きながら上空を飛びまわる。
久しぶりの黒人少年は、少しやつれて見えた。いつもなら他人の変化に興味なかったが、ハリーファは珍しく口にした。
「お前、少し痩せたか?」
「ここんとこ忙しかったからな」
ソルは今でも心のうちを隠し続けていて、ソルの考えていることは何も伝わってはこない。
今日ソルをここへ呼び出したのは、ハリーファが年末年始に考え抜いて出した答えを伝えるためだ。
「アーランから聞いていると思うが、ラシードに会わせてくれ。俺がラシードの所に行く」
皇宮を出る覚悟を決めたハリーファの言葉に、ソルは視線を落としてため息をもらした。
「……遅ぇんだよ」
予想外のソルの返事に、ハリーファの顔には失意の色が浮かんだ。
「オレは忠告したはずだ。ラシードの気が変わらないうちにってな」
「……ラシードは、もう俺に会う気はないと言うことか?」
「あぁ」
ソルの返事にひどく落ち込むハリーファを見て、ソルも残念そうに口を開いた。
「だけどよ、ラシードに会わせることは出来ねぇけど、あんた、ここから出る気になったんだな。なら、【エブラの民】に会わせてやれるぜ」
「【エブラの民】に!?」
ハリーファの翠の目が大きく見開いた。
「あぁ。ただし、あそこに行くには行程三日は必要だ。最低でも二日、ここから出られるか?」
二日と聞いて、ハリーファの眉間にシワが寄る。ラシードに会うだけなら数時間で済んだが、二日間も皇宮を抜け出すことは難しい。
「今は、シナーンの女奴隷に昼夜監視されているんだ……」
「どうにかならねぇのか?」
「あいつが俺の傍を離れるのは、今くらいの、昼の数時間だけだ」
それでは話にならないと、ソルはため息をこぼす。
「お前に頼めばどうにか出来るだろう? 報酬なら出す」
ハリーファの無茶に、ソルはあ然とした。しばらく黙って考えた後、何かひらめいたように話し出す。
「……出来ないことはねぇけどよ。高くつくぜ? 報酬は……『ヴァロニアの女奴隷』をもらえるなら受けてやるよ」
* * * * *
日が経つごとに、アーランのお腹は少しずつ、順調に大きくなっていた。
食事や排せつ以外の時間、アーランはずっとベッドの上で身体を横にして過ごしている。食事や沐浴など身の回りのことは、すべてジェードが介助していた。
その献身的な介助のおかげで、身体の異常もなく胎児の成長も小さいながら順調な様だ。
アーランにとっては、皇宮で自分のことを知らないジェードが、身の回りの世話をしてくれることが良かったようだ。
幼い頃からアーランを知っている者たちは、彼女の世話をしたがらなかった。それに、ラシードに嫁いでしまった今、アーランは皇女でもないため、世話を焼いたところで良い地位が望めるわけでもない。そのため、余計に誰も元皇女に関わりたがらなかったのだ。
アーランはベッドで大きくなったお腹を手で支えながら寝転んでいた。首の周りにひどく汗がにじんでいたので、ジェードはぬらした布で優しくふいてあげた。
「アーランは細いから、赤ちゃんが小さいうちに産まれても良いくらいなんですって」
ジェードは安心させるつもりで、出産経験のある家奴隷から聞いた話を伝えた。
「そう。でも怖い」
「わたしの友達のアルダも先月赤ちゃんを産んだところよ。話を聞いてみるのはどう?」
「その子……、井戸に居た子でしょう」
アーランは以前から自分のことを知ってる奴隷とは会いたくないようだ。
「きっと大丈夫よ。天使様が見守って……」
ジェードはアルフェラツのことを思い出して言葉を止めた。
「……わたし、ずっとそばにいてお手伝いするわ。羊の出産なら何度も経験があるのよ」
「羊……? 人のは?」
アーランは怪訝そうな顔をする。
「ないわ。……姉のお産を手伝うはずだったんだけど」
そこで口をつぐんだジェードを、アーランはじっと見つめた。
アーランを不安にさせないようにと思ったが、あまりに見つめられて答えないわけにはいかなかった。
「……その前に死んでしまったから」
小さな声で答えた。
「なぜ、死んだの?」
「妊娠していたからじゃないのよ。姉さんは、無実の罪を着せられたの……」
「そう。残念ね」
アーランなりの優しい言葉をかけられ、ジェードは少し目が熱くなった。
その後、アーランはジェードをなぐさめるでもなく、じっと見つめた。
「ジェード、あなたに頼みがあるの」
「何?」
さっと、目頭をぬぐう。
「私の夫が、私のベッドの上に手紙を置いてくれているはずなの。それを取ってきてくれないかしら?」
コツコツと扉をノックする音が聞こえた。
「皇女さん、オレだ」
ジェードが扉まで行く前に、返事も待たずソルがアーランの部屋に入ってきた。
ソルから微かに潮の香りがする。
「ハリには会えた?」
ジェードが聞くと、ソルは「あぁ」と答えた。今日はハリーファからの依頼を頼むために、アーランに頼んでソルを呼び寄せたのだ。
【王の間】では新しい女奴隷がハリーファを監視しているので、散歩のふりをして海沿いの城壁の上で待ち合わせてもらったのだ。
「ソル、ハリーファとの話が済んだのなら、今からこの子を連れてメンフィスの屋敷まで行って。用事を済ませてすぐに戻ってくるのよ」
アーランの命令に、ソルは面倒くさそうに眉根を寄せた。
「なんでわざわざこの女を? 用があるならオレが行ってくる」
「お前が私の部屋に入ることは絶対に許さない」
アーランの言い方に、ソルはますます仏頂面になる。ジェードから見ても少し不安になるくらい、この二人は関係が良くなかった。
「でも今からじゃ、戻るのは夜になるぜ」
「嫌なのなら、明日朝にもう一度来なさい」
明日に出直すよう言われて、ソルはさらに渋い顔をする。
「……わかったよ。明日は来れねぇから、今から行ってくる」
ソルはジェードの方を見て質問してきた。
「あんた、また入り口で見張りに止められるんじゃねぇのか?」
ジェード自身もそんな気はしている。ハリーファの女奴隷を辞めたとはいえ、きっとソルの言う通り、また以前の様に門で止められてしまうだろう。もし出れたとしても、次は入れてもらえるかどうかも問題だ。
「うーん……」
ソルの言葉に悩んだジェードだったが、すぐに良い考えがひらめいた。
誕生日にハリーファから教わった、城下への抜け道を使えるのではないだろうか。
「わたし、どうにかして皇宮から抜け出すわ。先にここを出て、市場の入り口でわたしが行くのを待っていて」