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ギリアンの私室にて、王太子ギリアンは、独りで諜報と工作に行っていたヴィンセントの話に耳を傾けていた。
「王妃の態度が依然として読めないのが懸念材料だが、当面の焦点は、ランス東部の掌握と、聖ソフィア大司教の奪還だ。ランス東部を抑えているのは、前王派の残党、いわゆる『王威派』。そして大司教を拘束しているのは、ガイアール領の『反王太子派』に属する連中だ。
そして、おそらく二ヶ月以内に、シーランドの兵がランス東部に介入する。ガイアールとの結託で略奪が始まれば、王威派とランスの住民の間に深刻な摩擦が生まれるはずだ。混乱は連鎖する。そこに、私たちの打つ手が入れば――最小の力で最大の成果が得られる。私の構図を理解し、戦術通りに動けるならば、勝利はすでに計算に入っている」
ギリアンは朗々と語るヴィンセントの話を、時折頷きながら黙って聞いていた。
ヴィンセントの話が一頻り終わったところで、ギリアンが切り出した。
「ホープには会ったかい? 君の為に、毎日頑張ってるようだけど」
ギリアンはヴィンセントが黒髪のホープの存在を『王太子派』の計略として利用しようとしている事が気に掛かり、遠まわしに聞いてみた。
「二ヵ月後には魔女が王太子に加担したとランスで噂が広まるはずだ」
反王太子派に対し、ホープを『聖人』としてではなく『魔女』としてデマを流したのだろう。ギリアンは、沈鬱なため息をついて頭を横に振った。
ギリアンが自身の黒髪を公表する決意ときっかけを作ったのは、ホープの存在があってのことだ。ローゼン領の人々はホープを『異色の聖人』と呼ぶことで、王太子の黒髪も受け入れる心の準備が出来たに違いなかった。
ヴィンセントのする事に間違いがないのはわかっている。だが、『聖人』と呼ばれることでどうにか受け入れられている黒髪の少年を、情報工作とはいえ『魔女』として吹聴することにギリアンは心が痛んだ。
ヴィンセントの計画はいつも必ず成功する。
噂が覆るか、国がひっくり返るかどちらかになるだろうと、ギリアンは背筋が冷える思いを親友にはばれないように隠す。
「実はさっき、ここまでホープと一緒に来たんだが、ホープに例の論文の事を聞かれた」
ギリアンは驚いてヴィンセントを凝視した。
「……まさか、シュケム論を……ホープに話したのかい?」
「ああ。到底納得出来ないようだったな」
ヴィンセントは少し冷笑的な笑みを浮かべた。
ギリアンはその笑みに怒りを覚えた。ホープの心の中で、ヴィンセントを信頼する心と異端を疑う心のせめぎあう様子が、ギリアンには痛いほどわかった。ギリアンにも、過去にホープと同じような経験があった。
「可哀相に。彼は、君の理想論に巻き込まれたんだ」
めずらしく怒気を含んだ声で、ヴィンセントに言葉を放った。
「可哀相、か。そうだな。ギリアン、君も巻き込むことになる」
「いや。残念だけど、もう僕は君には巻き込まれないよ。僕の目指すべき理想は、君とは行き先が違うからね」
ギリアンは惑わされない固い決意を持ちながらも、ヴィンセントに相乗りできない事にどこか寂しさを感じずに居られなかった。
「分かっているさ。私達は、互いに利用し合えばいい」
「でもヴィンセント……、僕は君を失うのが怖い……」
ヴィンセントがヘーンブルグへ養子縁組された本当の理由は、シュケム論を見た教会本部による王都ランスからの追放だった。その事は論文の内容も含めて隠ぺいされ、公にはされなかったが、ギリアンだけはその事実に気がついていた。
ヴィンセントの論文を読んでいたギリアンは、ヴィンセントが突然退学し、何処に居るのかさえ情報が与えられなかったことを不審に思い、その真実に辿り着いた。それは神学校内部にも、ヴィンセントの家族にさえ知らされていない事実だった。
「ヴィンセント。シュケム論の時、君はまだ未成年と言うことで、教会からも酌量された。でも、次に何かあれば、君は今度こそ『異端審問』から逃れられない」
ヴィンセントは何も答えず、蒼い視線でギリアンを捕えた。ヴィンセントの冷たい程の蒼い視線にギリアンの声が震える。
「もしそうなった時……、僕が戴冠していたら、『異端者』を助けることだけは、絶対に出来ない……」
ギリアンは片手で目元を押さえた。
『異端者』を助けると、王にまで異端の烙印が押されてしまう。魔女よりも『異端』の罪は重かった。
「ギリアン、君は私と言う人間を解かっているだろう?」
「解かってるさ! だからだよ! 僕は、この先、きっと君を見捨てる時が来る。近い将来、必ずだ! 今までだって僕は、君が失敗した所を一度だって見たことが無い。今回の君の計画も必ず上手くいくだろう。だから……」
「だから、なんだ? 君は、赦されたいのか?」
ヴィンセントは『友を見殺しにしたくない』というギリアンの感情を、更に深みまで突きつけてくる。
返す言葉が見つけられず、ギリアンは押し黙った。
「主情に流されるな。私と違う道を選んで【王】になると言うのなら」
「でも、僕は、人間なんだよ……。迷いもすれば、涙だって流す。君だって、同じだろう?」
「私は、もう二度と、迷うことも涙することも無い。たとえ君と立場が入れ替わったとしてもな」
ギリアンはヴィンセントを理解することは出来ても、彼を動かすだけの力が自分にはないことが歯がゆかった。
そして心に浮かぶのは、おそらくヴィンセントの心を動かすことが出来たのはルースだけだと言う事だった。もう二度と……と言うには、かつてはヴィンセントも迷い、涙したということだ。
「君の心を動かすことが出来た彼女に嫉妬してしまうよ……」
ギリアンは辛そうにため息をついた。
ため息を吐ききったギリアンは、重苦しい空気を振り払うように今度は明るい口調になった。
「君をそこまで駆り立てたホープの姉君は、一体どんな女性だったんだろう。ホープに似ていたのかい?」
「彼女は私よりもずっと異端だった。ホープとは見た目は似ているかもしれないな。男の割に小柄だから、時々、女と見間違えそうになる」
そう言いながら、ヴィンセントは口元を緩めた。
「歳も近くなったからじゃないかな」
――彼女が死んだ年齢に……
「まぁ、君に限って、見た目が同じなだけで、心が揺らぐなんて事はないだろうけど」
珍しく、言葉の最後に野暮な含みを持たせて可笑しそうに言うギリアンに、ヴィンセントは「有り得ないな」と鼻で笑うと、興味無さ気に聞き流した。
「でも、ホープは双子なんだろう? 双子の姉上は、確か名前はジェード、だったかな? 聖地に逃げたっていう彼女は、魔女疑惑が撤回されたら、ヴァロニアに戻ってくるんだろうか?」
そうなった時、ヴィンセントの心は動かされたりはしないのだろうか?
弟のホープでさえルースと似ているのだとしたら、その双子の姉ジェードは、ヴィンセントの死んだ恋人にもっと似ているのではないか?
そして、死んだ恋人によく似たジェードなら、ヴィンセントを思いとどまらせることはできないだろうか?
彼女を見たとき、ヴィンセントの心はどうなるのか、ギリアンの心に疑問と少しの期待が沸いた。