51.孤峰の異端者と孤独の聖人(二)
「君はクライス信仰以外の信仰については知っているのか?」
ヴィンセントが階段を登る足を止めて、ホープに蒼い視線を向けた。
「はい、エブラ信仰とモリス信仰なら。でも、名前だけしか知りません。だって聖典にも書かれてないでしょう?」
ホープも足を止め、二人は螺旋階段の途中で向き合った。
「そうだな。それでも良く知っている方だ。天使信仰はその他にノイツ信仰とハナス信仰がある。クライス・エブラ・モリス・ノイツとハナスの五人は天使信仰の伝承者だ。伝承者は私達と同じ人間だ。それが、いつの間にか神格化されて勘違いされている」
「クライスも人間……? じゃあ、クライスの書いた聖典は」
ホープの言葉にヴィンセントはうなずいた。
神の言葉ではなく、人の言葉なのだろう。
「ホープ、人間を神格化することは危険な行為だ」
ヴィンセントの声が螺旋階段に反響し、階下にも階上にも響いていく。ホープは誰かにこの話を聞かれるのではないかと不安になった。
「羨望や憧憬以上の依存心を他人に委ねてはならない。そんなことをすれば必ず間違いが起こる」
ホープは、自分がヴィンセントに対して抱いている感情を見透かされたような気がして、思わずたじろいだ。
だが、ヴィンセントはホープが臆するのも気にせず続けた。
「かつて存在したシュケムという国は、聖地の番人の役目を果たしていた。聖地は神の地などではない。聖地は救済を求める人の心の拠所だった。そして、オス・ローには【エブラの民】という一族が住んでいた。神の末裔と呼ばれる一族だが、彼らも人間だ。だが、いつのまにか、聖地に閉じ込められ神格化されてしまった。それも間違いだった。【エブラの民】は犠牲者だ」
「【エブラの民】? 神の末裔……?」
「神と言う目に見えない存在を有形化するために作り出したのだ」
「誰がですか……?」
「我々人間がだよ」
完全に教会を否定する内容を言うヴィンセントに対して、ホープは言葉が出なかった。
「【エブラの民】と言う存在、そして聖地もだ」
「……聖地は人間が作ったもの……? 聖地を否定するんですか?」
「否定をしている訳ではない。オス・ローは神の地ではなく、人の想いが作り上げた聖地だ。人がこの世を生きていく為には、心の支えは必要だからな。だからこそ、そういった象徴は人によって所有されてはならないのだ」
絶句するホープを見て、ヴィンセントは一度口を止めた。
そして、しばらく間をおいてから、ヴィンセントの本心と思える言葉をホープに漏らした。
「聖地に神などいない。だが、人々の心の拠所であるオス・ローは、まぎれもない聖地なのだ。だからこそ、ファールークという国の支配から、オス・ローを解放しなければならない」
――ジェードの魔女疑惑の撤回、ギリアンの王位戴冠。それらは単なる通過点であって、きっとヴィンセントが最終的に目指すものはオス・ローの解放なのだと、この時ホープは悟った。
ドームを中心にオス・ローは左右の大陸に広がっていく。
オス・ローは国ではない。国境など存在しない。
人種も身分も信仰も、オス・ローでは関係ない。
全てが受け入れられる。
壁も垣根も存在しない地、それが聖地だ。
そして、それがヴィンセントの求める世界なのだ。
ヴィンセントの言葉にホープは愕然とした。
でも、それならジェードが聞いていた【天使】の声はなんだったと言うのか。
「……ヴィンセントは、ジェードの事を信じてくれたんじゃないんですか?」
「信じているとも」
「じゃあ、どうして、聖地に神はいないなんて言うんですか?」
ヴィンセントを信頼しきっていたホープには、ヴァロニアの宗教概念を覆すようなヴィンセントの言葉さえ真実にしか聞こえなくなっていた。ヴィンセントと自分の思想の相違に、救われない気持ちが波のように押し寄せてくる。
「て、【天使】様は、絶対に居ます!」
「ホープ、私は神がいないとは言っていない。神は聖地だけに存在するものではないと言っているのだ」
「じゃ、じゃあ、一体どこにいるんですか?」
「どこにでも、だ。しかも、君の目指していた聖職者は教会に神がいるかのように教えを説いてはいなかったか? だが、残念だが、私はその姿を見たことも、存在を感じたこともない」
ヴィンセントは神秘的現象を信じようとはしない。おそらく今まで二十二年間、目に見えないものを頼ったりせず、自分の実力と采配だけで生きてきたのだろう。
「だから、ヴィンセントは神に祈りも捧げないんですか?」
「その通りだ。祈りとは己の心に祈るもの。神に祈ったところで、神は応えてはくれない」
予想通りの返答をされ、ホープはひどくやるせなくなった。
「でも、ジェードの事は……」
ジェードの祈りに【天使】は応えてくれていたはずだ。
「ジェードを信じると言ったのは、ルースから聞いた話を思い出したからだよ」
ホープの心中を察したのか、ヴィンセントの口調が少し穏やかになった。
「ルース姉さんの話?」
「君は聞いたことはないか? 君たち双子が生まれた時の話を」
「……ぼくたちが生まれた時?」
ホープは二人の兄たちと関わることは多かったが、歳の離れた異性の姉とは兄弟の中で一番関わりが浅かった。そんなホープとは逆に、五人兄弟の中の女二人、ルースとジェードはとても仲が良かった。
「……いいえ。ぼくは、何も。聞いたこと、ありません……」
成長するに従い片割れであるジェードの存在が自分から遠くなっていったように、ルースの存在もまたヴィンセントのせいでさらに遠くに感じずにいられなかった。いつも自分だけが置いていかれるのだ。いつまでも鈍感でいればいいのに、ふと気がついてしまい惨めな気分になる。
「そうか。ならばそれは、私の口から君に伝える事ではないな」
ホープの顔が暗く沈んだ。ヴィンセントの言うことはいつも正しいのだ。
二人は黙ったまま、再び螺旋階段を登っていった。
階段を上りきり、廊下を進むとギリアンの私室の前に着いた。
「ホープ。また一度、二人でゆっくり話そう」
ヴィンセントは、今まではめたままだった革の手袋を外し、ホープに手渡した。そしてホープに居候先への帰宅を促した。
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