50-2
一年前にヘーンブルグを出てからと言うもの、ほとんどの行動を共にしているヴィンセントは、ホープにとっては身内のように信頼し依存できる存在になっていた。
「私は今からギリアンの所へ行くんだが」
帰ろうとしているホープに気づき、ヴィンセントがこれから向かう先を告げた。
「じゃあ、ぼくも途中まで一緒に行きます」
二人は話しながら城の入り口へと向かうと、ギリアンの私室までの道程を並んで歩いた。
歩きながら、ホープはヴィンセントが不在の間に、自分やローゼン領であった出来事について話して聞かせた。
「そういえば、王太子様もまだ騎士の叙任を受けていないと聞きましたけど……」
ふと思い出し、ホープが不思議そうな顔をして、横のヴィンセントを見あげた。
「前王が意図して叙任を受けさせなかったんだ。王となるには、まず騎士でなければならないからな」
王族の事情などホープは全く知らず、その理由を聞いて納得した。ヴァロニア内部でギリアンを王位に就かせたくない『反王太子派』と呼ばれる勢力は、前王カルロスの意向を引き継ぐ勢力だ。
「ぼくは前の王様の事もよく知りませんけど、和平のために自分の息子、王太子様を犠牲にしたんですね。普通父親というのは、息子が自分の後を継いでくれることを望むものじゃないでしょうか? ぼくは兄弟でも末っ子だから、好き勝手させてもらっていますけど、一番上の兄はやっぱり父の後を継いでいますし……」
ホープは言ってからヴィンセントが前領主の養子になっていた事を思い出し、余計なことを言ってしまったと内心焦った。
だがヴィンセントは、そんなホープの心配事は、全く歯牙にもかけない様子で答えた。
「どうだろうな。ギリアンがその事をどのように捉えているのかは、私の知る所ではないからな」
前王と王太子の親子の間に本当に情愛があったのかもわからないし、王族の親子関係を、自分と同じ庶民の感覚で考えて良いのかホープにはわからなかった。
しかし、ヴィンセントのあまりに素っ気ない答えから、ホープは王太子よりも、ヴィンセントとその父親との関係の方が気にかかってしまった。ホープにとっては、王族も貴族もたいして変わらない。ヴィンセントと父親の間に情愛がなかったから、ヴィンセントはヘーンブルグの養子になったのだろうかなどと、余計なことがホープの頭の中を巡った。
「『貴族嫌い』のヴィンセントは王様も嫌いなんですか?」
「好きか嫌いか、階級は関係なく、先達を敬う心は持っているつもりなんだが?」
敬う? そんな姿を一度も見たことないホープは、不振の目をヴィンセントに向けた。
「だがギリアンが王になっても、私は今までと変わらないさ。ギリアンは友だ。そうだろう?」
ヴィンセントがうまく会話を続けてくれて、ホープはそれ以上ヴィンセントとギリアンの父親の事について考えないようにした。
二人は城の入り口まで来ると扉を叩いた。番人に扉を開けてもらうとギリアンの私室へと、廊下にぴったりと重なり合わない靴音を響かせた。
城の廊下は窓から西日が差し込んで、石の壁が規則的に四角くオレンジ色に染まっていた。
「カルロス王陛下が死んだ今となっては、ギリアンの主君になるべきは神しか居ない。叙任式も戴冠式も、聖ソフィアの大司教が居ないことには話しにならない」
「大司教様は捕えられているんですよね?」
「ああ、そうだ。ランス東部はガイアール領の傘下に入っている。ガイアールの領主はシーランドの血縁者だと言うからな。ギリアンの戴冠を邪魔しているのだろう」
廊下に二人の足音が響いていた。さっきまでは重なり合わなかった足音は、ヴィンセントがホープに歩幅を合わせてくれたことで規則的なリズムを刻む。
螺旋状の階段に行き着くと、ヴィンセントを追いかけるようにホープは円の外側を小走りに登った。この螺旋階段を登りきって少し進むと、王太子ギリアンの私室がある。
ふと、ホープは以前その部屋で聞いた話を思い出した。
「前に王太子様と話していた、シュケム論……でしたっけ。あれって何なんですか?」
「興味があるのか?」
ヴィンセントは階段を登る歩みを止めず、着いてくるホープの方を見やった。
「はい、ぼくは村を出るまでは教会に勤めていたので、元々神学には興味があるんです」
「ルースからは聞いていないのか?」
「はい、何も」
「シュケム論は、私が学生のときに書いた論文のことだ」
「論文? どういうことなんですか? その、聖地が……只の象徴、だなんて……」
ホープの言葉尻が苦しくなった。こんな事を口にしていいのかためらってしまった。
王太子が戴冠する意思を固めた後、二人の話を聞いていたホープがずっと気になっていた事だった。
聖地は神の住まう土地。それを只のシンボルだなどと決して考えてはいけない。クライス信仰のみしか許されていないヴァロニアでは、それを伝える教会の意思は『完全であり絶対』だ。少なくともヴィンセント以外の国民はそのことに何の疑問も持っていなかった。
「その論文のせいで、私は学位を取れなかった」
「学位を取れなかったのは、ヴィンセントが途中でヘーンブルグに来たからでしょう?」
神学校は十八歳まで在籍するはずだ。十六歳でヘーンブルグに来たヴィンセントは、仕方なく途中で中退したのだと、ホープは勝手に思い込んでいた。
「いや、義務教育と神学校は全く性質が違う。出席なんかしなくても学位は取れる」
「じゃあ、どうして?」
「学校が、いや、教会本部が私の論文を認めなかったからだ。提出したものは抹消された」
「抹消?」
「私の論文を見た司教は、私になんと言ったと思う。『君は神にでもなる気か』」
「え? ヴィンセントが神に……?」
ホープが少し恐れる様子を見て、ヴィンセントは高らかに笑った。
「馬鹿げているだろう」
「ヴィンセントは……異端なんですか?」
『異端』という単語だけ、ホープの声が小さくなった。