50.孤峰の異端者と孤独の聖人(一)
ヘーンブルグ領が王太子派に名乗りを上げてから、王都ランスはきな臭い雰囲気を醸していた。王都ランスと隣り合うローゼン領は、領堺の警備が厳しくなった。
ローゼン領の城の中庭で、木の打ち合う音が鳴り響いていた。
木剣の音と指導者の声が石造りの建物に反響している。音だけを聞いていると、騎士見習いの子供が大人相手に剣術の練習しているようだった。
子供と思われた拙劣な木剣の音を響かせていたのはホープだ。
ホープの少しはだけた胸元では、二つの聖十字のペンダントが衣服と素肌の間で揺れていた。
一つは、教会に勤めるようになったときに神父から貰ったもので、もう一つはヘーンブルグを出るときにウィルダーから預かったものだ。少し形違う二つの聖十字のペンダントは、時に絡まりながらぶつかり合っていた。
打ち合いが終わると、ホープはそれら二つのペンダントが汗で胸にくっつくのを避けるために、胸元から服の外に引き出した。
* * * * *
王太子に会うために、ホープがヘーンブルグ領を出てから一年以上過ぎていた。
ホープはローゼン領に留まり、ヴィンセントの知り合いのクート家に身を寄せ生活を続けていた。
ローゼン領内には金色や亜麻色の髪の人間しかいない。ヘーンブルグの人びとのような、黒い髪がまったくいないのだ。その事実にホープは驚きを隠せなかった。
街を歩いていても、貴族以外の領民たちでさえ黒髪は誰一人いない。同じ国だと言うのに、自分だけが異国人のように浮いてしまっている。ホープは、奇異なものを見る人々の視線に、異国に迷い込んだような錯覚を感じずにはいられなかった。
そしてホープは黒髪をさらして生活しているうちに、いつの間にかローゼン領内で時の人となっていた。まるでヘーンブルグにおけるヴィンセントと同じように、その外見の違いから、ホープのことを知らない者はいないほど噂が広まっていた。
ヘーンブルグ領で、ヴィンセントは『金髪碧眼の変わり者』と言われていたが、ここでホープは『異色の聖人』と言われていた。その言葉には、少なからず侮蔑の意味が込められている。
ホープが男であることも周知されているはずだが、一年前から伸びっぱなしになっている髪が、結わえられる程の長さになっており、黒髪を下ろしているホープの姿を見た人は、少女と勘違いすることもあった。
黒い髪のせいで注目を浴びたホープだったが、やがて人々の視線は身分を偽ることを辞めた王太子ギリアンへと移った。
王太子の髪が伸びてきたからだ。黒髪の王太子は、僧衣を脱ぎ絹の衣装に着がえると、自分の所在を公にした。
王太子は『異色の聖人』の【黒】が感染ったのだと影で噂は広まり、王太子派から去るものも少なくなかった。
* * * * *
夕方になって、騎士の訓練を終えたホープは指南役のクロード・フォン・デュールが城内に戻るのを見送った。使った道具を中庭から片すと、一人城下にある居候先へと坂道を下っていく。
いつものように城を出ようとすると、ホープは自分とは逆に坂道を登ってくる人物に気がついた。
「ヴィンセント! お帰りなさい!」
ヴィンセントはホープをローゼンに残し、ここ数週間ひとりでどこかへ行っていた。
少し遠くにヴィンセントの姿を見つけ人懐っこく叫ぶホープに、ヴィンセントは片手を上げて答えてくれる。ホープはヴィンセントのそばへと坂を小走りに下った。
ヴィンセントのことをファーストネームで呼ぶ者は、ホープと王太子のギリアンだけだった。
ヴィンセントは貴族が嫌いだと言いながらも、自分が貴族達の中でどのような評価を受けているのかを客観的によく理解しているようだ。そして、時にそれを利用しているようだった。
王太子派と呼ばれる集団の中で、黒い髪の二人だけがヴィンセントを名前で呼び捨てにしている光景は、ヴィンセントが始めから視野に入れていた宣伝だったのかもしれない。『異色の聖人』を、ヴィンセントと同格かそれ以上の何かを持っていると、人々に錯覚させることに成功していた。
ヘーンブルグを出る時に『ヴィンセントと名で呼ぶように』と言われていたホープは、今になってその事に気がついた。だがヴィンセントの性格を良く知った今となっては、自分が情報操作に使われたのだとしても悪い気はしなかった。買いかぶりかもしれないが、ヴィンセントには心を許せる友人と呼べるのは、本当にギリアンと自分しかいないと思えたからだ。
金髪碧眼の美青年は微笑をたたえ、周囲に居た人の視線を集めながら、駆け寄るホープを迎えた。
「今まで訓練だったんだろう? もう帰るのか?」
「はい」
ホープはヴィンセントに自分も王太子派に参加するように言われてからと言うもの、毎日騎士になるための訓練を受けていた。だが十五歳ですぐに元帥の称号を得たヴィンセントに比べ、もうすぐ十五歳になるホープは、騎士としての才能も感覚も全くない事を自覚させられるばかりだった。
ヴィンセントの期待には応えられそうにない自分に、がっくりと肩を落とした。
「どうした? デュール伯の個人稽古は辛いのか?」
ヴィンセントは、まるで心の中を見たかのような言葉をかけてきた。
「ホープ。君も十五の誕生日が来たら叙任を受けておくといい。私でも構わないんだが、ヘーンブルグ所属より、ギリアンに頼んでランス所属の騎士になっておけ。私が推薦しておいてやろう」
ヴィンセントの信じられない言葉に、ホープは思わず固まってしまった。
クライス信仰では十五歳から叙任を受け正式に騎士の称号を得ることが出来る。ただ、今の状態では自分よりも若い騎士見習いにも到底実力が及ばない。
だが、ヴィンセントの申し出を断っても無駄なのはわかっているので、抵抗するのは諦めて小さくため息をついた。
「……ぼくはヘーンブルグ所属で結構です」
「何を言っている。ヘーンブルグに騎士なんか要らないだろう」
ヴィンセントの言うとおり、牧歌的なヘーンブルグには騎士の称号を持つ者は一人もいない。いや、正しくはヴィンセント一人だけで、そのヴィンセント自身も元をたどればランス所属の騎士だ。
もちろんヘーンブルグにも、叙任を受けていないと言うだけで自警団など剣術を使って日々の生業としている者達はちゃんといた。だが、何故かヘーンブルグは完全に蚊帳の外で、兵士が募集されることもなければ、領外の情報さえほとんど入ってこなかった。
「……ぼくはとてもじゃないけど、騎士に向いてないと思うんですけど……」
「聖職を志していたなら、そう考えるのも当然だろう。実際、付け焼刃でどうにかなるものでもない」
はっきり答えるヴィンセントに同意するように、ホープは「そうですよね」と苦笑するしかなかった。
貴族の子供たちは義務教育の年齢から騎士見習いとして訓練を始めるのだ。余程才能が無い限り、昨日今日の訓練でどうにかなるものでもない。
「だが気にすることはない。君にあつらえ向きの別の役割がある。何も騎士は剣を振るうだけが役目じゃないからな」
「なんでしょう。従者とか? ぼくは後ろの方で旗振り役でもさせてもらいます」
「わかってるじゃないか。だが、その旗振りは、後ろじゃなくて、先頭ですることだ」
笑いながら言うヴィンセントにまたうっかり返事しそうになり、ホープは焦る心を一人落ち着かせた。