49.ハリーファと似た男
夕刻にメンフィスに戻ったソルは、いつものように真っ先にラシードの部屋を訪れた。
「おかえり、ソル」
ラシードの声を聞いて安堵した。アーランが葬儀礼拝に行った後から病状が悪化していた主人も、今日は調子が良さそうだ。
午前中の晦日礼拝で、ラシードより少し若い年齢の宰相の姿は、元気だった頃の主人を彷彿とさせた。このまま快方に向かえばと、心の片隅で願わずにはおられない。
「朝早くに出て行ったかと思ったら、夕方にはきっちり戻ってきて。毎日私の世話ばかりで大変だろう」
「何言ってんだ」
ラシードからのねぎらいの言葉も、もうすっかり聞きなれてしまった。
「アーランはどうだった? 一緒に戻って来ていないのかい?」
「それが、皇女さん絶対安静だ。動いたら生まれちまうんだって」
「それは……心配だな。【天使】よ、妻と子がどうか無事に……」
ラシードは瞑目し祈りはじめた。ソルはその様子を黙って見つめる。
病床についたころから、ラシードはこうして時々一人で祈っている。ソルには、その祈りがひどく孤独に思えてならない。
ラシードは一体何に祈っているのだろう。この祈りは、本当に【天使】とやらに届いているのだろうか。
祈り続けるラシードの手は、肉が落ち、骨と筋が浮いている。その手を覆うように、ソルは自分の手を上から重ねた。昔はとても大きく感じた養父の手が、今は自分の手の中に納まってしまう。
初めてアーランの懐妊を知った時は複雑な気持ちだったが、赤子が無事に生まれてくることを、今ではソルも心から願っている。アーランが生むのはラシードの子なのだ。命を繋ぐことができるのは、女だけなのだと気づかされた出来事だった。
祈りを終えたラシードは、組んだ手をほどき、ソルの髪を子どもにするようになでた。
今のラシードは顔色も滑舌も良い。長く体を起こしていても疲れないようだ。
「今日はとても調子が良い。私も一緒にサンドラに行けば良かったかな」
「いや、捕まっちまうだろ」
「従弟殿が【王】を殺した私を見逃したのは、偶然にも、皇宮内でハリーファ皇子が【王】として生まれたからだったのだろうな。もっと早くに気付いていれば……」
ラシードが何のこと言っているのかわからず、ソルは少し首を傾いだ。
ここしばらく臥せっていたラシードに、七日前の出来事を報告する。
「そういや、前にさ、ヴァロニアが二人の魔女を探してただろ? その魔女、見つけたんだ。名前が違うから二人いるんだと思ってたんだけどさ。その魔女、同じ人物で、しかもハリーファの女奴隷だった」
「ハリーファ皇子の女奴隷が、ヴァロニアの魔女?」
「うん、間違いねぇ。今日は皇宮で姿を見なかったけどな」
「……どういうことだ。やはりヴァロニアがハリーファ皇子に関与しているのか? ソル、その魔女探しの事だが、一つは王太子派のヘーンブルグ領主で、もう一つは反王太子派の王族の誰かが出したものだろう。
おそらく、この魔女狩りは王太子を王位に就かせない為の切り札だ。ヴィンセントが王太子派につくことを阻止するためだったと、私は思うんだ。ヴィンセントがついた方が必ず勝つのだからな」
「なんだよ、そのヴィンセントってやつ……」
「ヴィンセント卿は、噂ではとても美男子で、そして冷酷な男だと聞いている。金の髪に宝石の様に美しい蒼い瞳の男らしいぞ。私も会ったことはないんだがね」
「ふぅん」
目の色こそ違うが、金の髪と聞いてソルはハリーファの姿を思い浮かべた。改めて考えると、ハリーファもかなりの美少年だ。それでも、ハリーファは善良ではなくとも冷酷ではない。むしろ弱さを感じるくらいだった。
「もうヴィンセントは王太子派についたんだろ。だったら魔女を引き渡すとしたら王族の方かな?」
確か、魔女と引き換えに身代金を出すと言った、身なりも良く、取引にも慣れていた方だ。
「魔女の取引は、お前の好きにすれば良いさ。ヴィンセント卿が動いた後になって、王族側に魔女を引き渡しても、状況が覆るとは思えん。しかし、オス・ローを復興させるには、東大陸内の争いをいかに長引かせるか。このままギリアン王太子をヴァロニアの王にして、ヴァロニアとシーランドの争いを継続させても良い。ギリアン王太子が王になるのを、リナリーとシーランドが阻止するはずだ。もしリナリーの子が王位についても、ヴァロニアの諸侯達が反乱を起こす。ヴァロニア内部で争いは続くだろう」
「じゃあ魔女はこっちの利益の多い方に引き渡すよ」
「しかし、魔女の事よりも、オス・ローを解放するためには、ハリーファ皇子をファールークから追放しなければならん」
「ハリーファを追放……? ……今日、ハリーファにラシードに会いに来るように言ったけど、あいつはダメだ。何を恐れてんのか知らねぇけど、皇宮から出たがらねぇんだ。皇宮からも出れないのに、ファールークから外に出るとは思えねぇよ」
「ハリーファ皇子がヴァロニアの誰かと繫がってるなら、人質としてでも引き取ってもらうのが良さそうだな」
ラシードはそこでふと語るのを止めた。
ソルは、目の奥が熱くなってくるのをこらえる。ラシードとこんなに話せるのは久しぶりだった。
「ソル?」
少年は、無意識のうちに出来ていた眉間のしわを伸ばして、ラシードの黒い瞳を見つめ返す。
「オレ、ラシードに、聖地オス・ローを見せてやるから……」
その言葉に、ラシードの口角のしわが深くなった。
「ありがとう。お前のような息子がいて、私は果報者だ、ソロモン」
もうラシード以外が呼ぶことのない本当の名がくすぐったい。名を呼ばれて胸の奥が熱くなる。
「ソル、あの棚の、鍵付きの引き出しに入っている物を取ってくれないか」
「うん」
鍵付きの引き出しは、その鍵自体が取手となる。刺さったままの鍵を直角にカタリと回し、引き出しを開けた。そこには紐で綴じられた表紙付きの紙束が入っていた。
「これか?」
「ああ、そうだ」
ベッドに戻りラシードに紙束を手渡す。その表紙には1218という数字が記されていた。
「ここにファールークの呪いを解くヒントが書かれている。ハリーファ皇子が引き籠ってる理由もわかるだろう」
ラシードは渡された紙束を開きもせずに、ソルの手に戻した。
いつもアーランが座っていた椅子をベッドに近づけて座り、ソルは前のめりに受け取った紙の束をめくった。表紙の題に違わず、1218年の皇宮内の記録が記されているようだ。
ソルはベッドにもたれかかるようにして、黙ってページをめくる。
半分ほど流し読んだソルが、ポツリと呟く。
「【宰相】と悪魔が契約とか御伽話かよ……。くだんねぇ慣習だな……」
ばかばかしい……とソルは心の中ではつぶやいた。
「だが、そう言う因習は、大体どこの王家にもあるものだぞ」
「オレは悪魔も神魔も信じねぇ」
ラシードはハハッと笑った。
「そうだな。お前が天使さえも信じていないのは知っているよ」
ラシードはソルの黒い髪に触れ、また優しくなでた。
記録に目を通しているうちに、ソルの瞼はだんだんと重くなってきた。ここ数日間、ラシードの調子が悪かったこともあってずっと気が抜けなかったのだ。
「あの引き籠り皇子を、どうやって……だな……」
眠気にあらがったが、髪をなでてくるラシードの手が暖かく、だんだんと口を動かすことも億劫になった。
いつの間にか、ソルはラシードの傍らで眠っていた。
『本当に、望みは何もないのか?』
「私の望みは、息子が引き継いでくれるそうだ。生きること以外に、何も思い残すことはない」
ラシードが誰かと話す声が、頭の上から聞こえる。ソルは転寝から目を覚ました。座ったままベッドに伏せていたため、首が痛だるく目もすぐに開いてくれない。
そう言えば、夕食の準備をしていなかった。家奴隷が食事を持ってきているのだろう。それにしても周りが真っ暗で何も見えない。すっかり深夜になってしまったのだろうか。
「あぁ、一つだけあるな。妻の体が心配だ。私の子が無事に生まれるように……」
夕方に聞いたような祈りの詞が、まどろむ頭の上から聞こえてくる。
ソルは必死で瞼と頭を持ち上げた。その視線の先、ラシードのベッドの自分と反対側に、金髪の後姿があった。ベッドのふちに腰かけて、顔だけをラシードの方に向けている。
その姿を確認して、いっきに目が覚めた。
(ハリーファ皇子!? なんでここに……)
男の横顔はハリーファにそっくりだ。瞳も同じ翠色だった。しかし、ハリーファとは違って表情は明るく、ハリーファに感じる陰気臭さがまったくない。
違う、ハリーファではない。そう気がついたが声が出なかった。
『ラシード・アル・ハリード、お前のその望み、確かに叶えよう』
周囲は耳が痛いほどに静かで、謎の男の声は頭の中に反響する。
金の髪の男はラシードの手を取ると、突然姿を消した。
突風が起こり、静寂と暗闇が男とともに消え去った。窓の辺りだけがぼんやりと明るくなった。
「……ラシード、なんだ今のヤツ!?」
男が窓の外に消えたのかと思い、ソルは窓へ走ると外へ身を乗り出した。細い逆三日月の光が薄雲をとうして、夜の街をゆるく照らしている。
「いない……」
月の細さを見て、ソルは目の奥に痛みの種がくすぶるのを感じた。
「……っ」
ふり返り、ソルはベッドに座ったままの主人にかけよった。暗闇に目が慣れて、ラシードの首が力なく前に傾いているのが見えた。
「ラ、ラシード……?」
ベッドの上にすべり乗り、ラシードの肩に手を置くと、すぐに異変に気がついた。
「ラシード、ラシードッ……ッ……うう」
ラシードはもう呼吸をしていない。
ソルは子どものように、息が詰まるほど激しく泣いた。
養父の体にすがりつくが、その両腕がソルの背を包み、抱きしめてくることはなかった。