48-3
夕刻になっても、ファールークの空には層雲が広がっていた。熱さに慣れていた体には、薄曇りの天候さえ肌寒く感じる。
ハリーファの代理で姉皇女を見舞い、ジェードは本宮から出てきた。回廊で、うす暗い空を見上げてため息をこぼした。
「雨が降るのかしら……」
ジェードは雲を眺めてつぶやいた。
この国では、雲は出ることがあっても雨はなかなか降らない。ジェードがファールークの皇宮に来てからすでに二年近く経つが、今までに雨が降ったことは一度もなかった。
ハリーファも雨を見たことがないと言っていたので、少なくとも十三年近く雨が降っていないと言うことなのだろうか。
ファールークには『約束は雲、履行は雨』と言う諺があるらしい。それは約束は守られないと言う意味だとハリーファから教えられ、ジェードはがっかりした覚えがある。
雨が降って約束が履行されたらいいのにと、そんなことを思いながら、ジェードは回廊を一人で歩いた。空気がしっとりと、肌にまとわりついてくるようだった。
【王の間】に戻ったジェードに、ハリーファは開口一番にアーランの事を聞いた。
「どうだった?」
晦日礼拝に来なかった異母姉は、昔使っていた部屋で養生している。アーランはハリーファとの面会を拒否したので、代わりにジェードを見舞いに遣わせたのだ。
アーランのところから戻ってから、ジェードは心の中を隠すのが下手すぎる。本人もわかっているだろうが、ハリーファに言いづらい事を言わなくてはならないという葛藤が態度にまであらわれている。
「赤ちゃんがまだ大きくなっていないのに、生まれそうになってるんですって。でも、動かずに安静にしていれば大丈夫みたい」
ハリーファに隠し事をしても無駄なので、ジェードは小さくため息をもらし言葉を続けた。
「……ハリには、これからも会わないって、言ってたわ……」
「そうか」
ハリーファも、ジェードと同じようにため息をつく。
「心の中を知られるのが嫌だから、ハリとは会わないって言ってるのかしら……」
「そうだろうな」
アーランは十歳でラシードのもとに嫁ぐまでの間、皇宮内でもほとんど人前では口を開くことがなかった。
幼かったハリーファは、リューシャに止められていたにもかかわらず、口を閉ざしたアーランの心の声に耳を傾けることがあった。そんな事から、アーランだけはハリーファの異能を知っていた。
「お姉さん、知ってるのね。ハリのその力のこと……」
心の内を探られると知っていて、アーランはハリーファとの面会を拒絶しているのは間違いない。
「俺も、幼い頃は、この力が自分だけのものだと分かっていなかったんだ。リューシャに口止めされて、その時初めて普通の事ではないと知った」
「心の声は、ハリが聞きたくなくても聞こえてくるんでしょ?」
「それでも、普通は気味が悪いだろう」
ハリーファの言葉にジェードの顔が曇る。
「このことを知っているのは、リューシャと、アーランと、お前だけだ。お前は、」
気味が悪いと思わないのか、と聞こうとしてハリーファは止めた。思い返せば、ジェードからそんな言葉が聞こえてきたことは、今まで一度もなかった。
「アーランから聞いて、あいつも知っているだろうな」
黒人奴隷のソルも、アーランからハリーファの異能のことを聞いたのだろう。ハリーファの前ではずっと心の中を隠し続けていた。
「もしかしたら、ラシードにも……」
きっと伝わっているだろう。しかし、ラシードはアーランの心を開いたのかと思うと、どんな人物なのかとても興味が湧いてくる。他人に対して好奇心がわくことが少ないハリーファだったが、ラシードと会いたい気持ちが強くなった。
ソルはラシードの気が変わらないうちに連絡をしろと言っていたが、まだ自分自身が皇宮から出ていく覚悟が出来ていない。
黙りこんだハリーファにジェードが近づいてきた。
「ハリ、あの、お願いがあるんだけど……」
ジェードはとてもつらそうな顔をして、申し訳なさそうに口を開いた。
「……ハリ、ごめんなさい。わたし、お姉さんの女中として働こうと思うの。だから、」
ハリーファはジェードの懇願に言葉を失った。
「……俺の奴隷を辞めたいのか……」
アーランから脅されたり、条件を出されたのかと、ジェードの心に耳を傾けたがそうではないらしい。
「お姉さん、お世話をしてくれる人が誰もいないの。皇宮の人たちは何だかお姉さんに対して優しくないし。これから赤ちゃんが生まれるのに、一人じゃ大変だと思うの……」
ジェードは決意するまでとても悩んでいたようだ。今にも泣き出しそうな声だった。
「……わかった……」
ハリーファの返事を聞いて、ジェードは泣き出しそうな顔でほほえんだ。
ハリーファは心にもない返事をしてしまったことは、自分の中だけの秘密にしておいた。
アーランがメンフィスに帰るまでと条件を出そうかと思ったが、アーランと一緒にメンフィスに戻れば、ヴァロニアと繋がりを持つことや、もしかすると帰郷が叶うかもしれないと気づき、それも思いとどまった。