48-2
数刻後、【王の間】にやってきたのは、やはりソル一人だった。
礼拝の時に着ていた礼装は脱ぎ、騎乗に適したトラウザーにはきかえ、帰り支度を整えていた。
少し早かったが、ジェードは昼からの仕事に戻っていた。七日前のジェードの様子から、ソルと顔を会わせないように、ハリーファが早めに仕事に戻らせたのだ。
「ラシードは来なかったのか」
応接に一人で入ってきたソルに、ハリーファは投げるように言葉を吐いた。ラシードに会えることを思っていた以上に期待していたようだ。
「……ラシードは皇宮へは来れねぇ」
依頼を遂行できなかったことに対して、ソルの方が悔しそうに唇をゆがめた。
「あんたの言ってたとおりだよ。十三年前、皇宮で家奴隷の子どもを殺害したのはラシードだ。そのせいで、ラシードは宰相からあんたに近付くことを禁じられてる。ここに来たらラシードは捕まっちまうだろ?」
ラシードが殺したのは、ハリーファの前の【王】だ。家奴隷の子として育てられていたから、大事にはされなかったのだろう。
ユースフの記憶を思い出す前に殺された幼いルクンの記憶は、ハリーファもないに等しい。
「……ラシードも、第二皇子に会いたがっている。あんたの方から、ラシードに会いに来てくれないか? オレが案内する」
「俺はここから出られないんだ」
ハリーファの言葉に、ソルの眉根が寄る。
「出れるだろ? 一度は聖地に行ったんじゃねぇのか。それに、あんたはもう武器も持ってる。そんなにあの親父が怖いのか?」
そう言われて、ハリーファはにわかに右足首に違和を感じた。見えない鎖が右足を捕らえ、重たくて動かせない。
ファールーク皇国は、ユースフにとって、父親の呪縛から自由になるための国だったはずだ。それなのに、アーディンと【悪魔】の契約によって、身動きがとれなくなっている。
「お前こそ、ファールークの領土から外には出られない身だろ!」
「……オレは、あんたとは違うぜ。オレは、いずれ、どこへでも行ってみせる」
思わず声を高めたハリーファと対照的に、ソルは冷静だった。葬儀の時と同じように真剣なまなざしをハリーファに向ける。
ハリーファはひどく情けない思いに捕らわれた。
ユースフの悲願であるサライとの約束、【エブラの民】を救うためには、どうしてもラシードの力を借りたかった。なのに、皇宮から出られないのだ。ラシードが画策していることに、自分が利用されることになったとしてもかまわないと思っている。
ラシードの力を借りるためには、ソルと腹を割って話す必要があった。
「ヴァロニアへの手紙はもう届けたのか?」
「ああ、とりあえず国境まではな……」
さっきの言いざまに、ソルは少し不満げにこぼした。
「お前にはもう少し協力してもらいたい」
「オレだって、あんたとはもう少し仲良くしたいと思ってんだぜ。ラシードもそれを望んでる」
「本当にそう思っているなら、心の内を隠さないことだな」
「……?」
ソルは怪訝そうに眉にしわを寄せ、しばらくしてから口を開いた。
「……このご時世に、ヴァロニア人の女奴隷なんて、そう簡単には手に入らねぇだろ」
ソルはハリーファをじっと見つめた。
「聖地が機能していた時代や、戦争のあった頃は、東大陸人の奴隷もたくさん居たって言うけどな。寒い土地の女の肌は白絹のようだから、多くの金持ちがヴァロニア人を妻として迎えたって言う話も聞いたことある。でも、二百年前の国境封鎖のせいで、今では生粋のフロリス人は西大陸からほとんど居なくなったはずだ」
ソルの瞳を見てハリーファはぎくりとした。まるでソルに心を見透かされているかのように感じた。ソルの黒い瞳は、窓からの光を受けて菫色に光っていた。
「だけど、あんたの女奴隷はヴァロニア人だ」
外交都市だったメンフィスは今もヴァロニアと繋がっていることは知っている。
「メンフィスの交易家なら、ヴァロニア人ぐらい珍しくもないだろう」
「……まぁな。でも、見えない壁のせいで、東大陸人はこっちには絶対に入ってこないぜ」
「見えない壁……?」
ハリーファは不思議そうにつぶやいた。
西大陸を暗黒大陸と呼ぶことや、人々の心に黒きものが魔性と言うの意識を植え付けた聖典の普及も原因なのだろう。
「でも、あんたの女奴隷はそれを超えて、ファールークにやって来た。なんでだ? あの女、本当はあんたがヴァロニアに遣わしてた密偵か? それとも逆で、ヴァロニアからの密偵なのか?」
ジェードはヴァロニアからの密偵でも人質でもない。自分を殺しに来た【天使】からの刺客だ。
ソルの言っていることと、ジェードのことを考えると、ハリーファは可笑しくなってきてソルから顔を背けた。
「お前、馬鹿げた事を考えるんだな」
どうやら予想がまったく外れたことに、ソルは顔をゆがめた。
「モリス信仰は、確か、女奴隷に教養を与えて妻に迎えれば、天国で倍の報いを受けるられんだったっけ? あの女奴隷にもっと教養を与えた方がいいんじゃないのか?」
「馬鹿馬鹿しい。そんなのただの奴隷解放の助長だ」
さっきまで笑っていたハリーファの声音に、少し怒気が含まれた。
「ここは法より信仰の国だってのに、皇子様が信心足りねぇこと言ってくれるね」
ソルは呆れて肩をすくめた。
しかし、ソルは本気では言っていないだろう。今まで何度も違和を感じていたが、きっとソルはモリス信仰者ではないのだ。ハリーファに対してまともに敬語も使わないのも、教養不足なのではなく、信仰を守旧する国の皇子という身分に対して、本質的な部分で媚びていないのだと思える。
心を隠し続けるソルが、本当は何を考えているのか、ハリーファにはわからない。ひどく勘が鈍くなってしまった自分をもどかしく思った。
「次は、皇女さんが動けるようになれば迎えに来る約束だ。だけどあの様子じゃ、とうぶん先になるだろうな。もし、あんたがラシードに会う気になったら、皇女さん通じて連絡をよこすんだ。ラシードの気が変わらないうちにな」
ラシードと会いたければ、今度は自分が動かなければならない。
右の足に付けられた、目に見えない枷がじゃらりと鳴った。
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