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そう言えば、いつもならジェードはとっくに【王の間】に戻ってきている時間だ。自分が戻る前に、ジェードはソルと鉢合わせたのだろう。ジェードはソルの黒い肌に怯えて、出て行ってしまったのかもしれない。
ソルは、ジェードがヴァロニア人だとなぜわかったのだろうか。
今回は、ソルをここに待たせておいたハリーファの失策だ。
(ジェードを探しに行くか)
部屋を出ようとした時、隅に落ちていたジェードの櫛が目に入った。
ハリーファはカチャと小さな音を鳴らし、床から櫛を拾い上げた。
「なんでこんな所に落としていったんだ……」
ハリーファは拾い上げた櫛を見つめた。
* * * * *
荒い波の音と海鳥の声が聞こえてくる。
黒い肌の少年から逃げて【王の間】を出たジェードは、海の見える城壁へ向かった。
狭い階段を上るのにも、すっかり慣れたものだ。熱くなった胸壁に身体を預けると、乱れた呼吸もようやくおさまってきた。
ジェードの姿を見つけた海鳥たちが、羽音を立てながら胸壁に集まってきた。ジェードが今日は餌を持っていないことに気づくと、城壁に降り立つことなく近くを飛び回る。
「ごめんね。今日は何も持ってきていないの」
海風が吹いて、伸びた髪が顔をおおう。ジェードは風に抵抗して、何度も手で髪をはらいのけた。
ジェードは胸壁にもたれ、頬杖をつくようにして飛んで行った鳥を眺めた。
さっきの少年の事を思い出す。ハリーファは、自分には頼めない仕事を色々と頼んでいたようだが、なんだか少年の事を信用できなかった。
でもそれは肌の色のせいではない。ハリーファの出生を疑ったり、性的な目で見られたことに嫌悪したのだ。
嫌な気分を飛ばそうと、ジェードは胸壁から身を乗り出すようにして、海からの生ぬるい風を顔に受けた。
その時、壁の下に人の気配を感じた。真下を見やると、不思議な服を着た黒髪の男が歩いている。
ファールークのものでも、ヴァロニアのものでもなさそうだ。くすんだ黒色の重そうな外套を纏っているが、漆黒の髪に見覚えがあった。
(ハリのパパだわ!)
ジェードは見つからないように思わず身を縮めた。胸は先程よりも早く打ちはじめる。
(……こんなところで、一人で何をしてるのかしら?)
気になって胸壁の影に隠れてジャファルを見つめた。
今までも皇宮内でジャファルの姿を見つけると、つい目で追っている自分に気がついた。
初めてすれ違った時から感じている不思議な気持ちだ。なぜかいつも心の中で、こっちを向いて笑ってほしいと願っている自分がいる。この想いの正体は、ハリーファも教えてくれなかった。
ジェードは黒髪の後姿を見つめながら、一人ため息をもらした。
しかし、よくよく見ると、男は髪の長さや体形は宰相にとても似ているが、背は少し低そうだ。
(ハリのパパじゃないのかしら……)
黒髪の男は岸壁ぎりぎりで立ち止まると、そこで海を眺めて動かなくなった。何か叫ぶわけでも、海に飛び込むわけでもなさそうだ。ジェードは吸いつけられるように男の背中を静かに見つめ続けた。
上空では、海鳥たちがキーゥと呼び笛のように鳴きながら、旋回を続けている。
数刻の後、男は用が済んだのか、さっと元来た方向に振り返る。
その時、男の顔が見えて、ジェードの心臓は強く打った。
男はジャファルによく似ているが、一回りほど若かった。そして、その表情は極めて平常であるのに、纏う空気が酷く痛々しい。憂愁を帯びた瞳だけが、かろうじて男の感情を映し出しているようだった。
男の漆黒の瞳を見て、ジェードは涙があふれそうになった。
憂愁を帯びた黒い瞳はジャファルととても似ている。だけど、ジェードはその瞳がもっと似ている人物を知っている。
――ハリーファだ。
瞳の色はまったく違うのに、そこに浮かぶ悲しみの色はハリーファとまったく同じだった。それに気がつくと、ジェードの胸の奥がきゅっと苦しくなった。
城壁の上から覗き見しているジェードに気づくことなく、男は岸壁を去っていく。
城門のほうへと城壁沿いに歩いていく男の後ろ姿を、ジェードは胸壁から身を乗り出すようにしてのぞいた。
(あの人に会わなきゃ!)
突如わいた想いにかられ、ジェードはあわてて城壁の通路を走り、その姿を追いかけた。
「待って!」
上から呼んでみたが、男はまったく気づく様子はない。やがて胸壁がジェードの背よりも高くそそり立ち、ジェードは男の姿を見失ってしまった。
そのまま通路をまっすぐ進むと、城門の上につきあたった。海側のような矢間はなくなり、胸壁のところどころに四角い穴が開いているだけになっていた。
ジェードはその穴に顔を近づけ外を眺めるが、胸壁が分厚く真下の様子は見ることが出来ない。
しかし、外の世界を見たことのないジェードは、遠くに初めてサンドラの城下の街並みを見ることが出来た。
砂色の四角い屋根が少し不規則に並び、きつい日差しが家と家の隙間に濃い影を作り出す。街のもっと向こう側の空は砂で煙っている。
男性を追ってこなければ、この景色は見ることがなかったかもしれない。ジェードははっと我に返った。黒髪の男は、もしかしたら城門からこの中に入ってくるのかもしれない。慌ててふり返る。内側の壁に扉が付けられていたが、鍵はかかっておらず、扉を開けてジェードは階段を下りて行った。