46-2
ジェードが洗い終わった洗濯物を抱えて【王の間】に戻ると、応接室には黒い人物だけが立っていた。
またジャファルかとジェードは身構えた。
(……誰?)
黒人少年は、扉の開く音を聞いて入り口の方を振り返る。ジェードと目が合うと、片方の口角をあげた。
「ハリーファ皇子に、ここで待つように言われたんでね」
「……」
黒人少年の存在に、ジェードの胸の鼓動が強くなった。
少年の顔はやはりアルフェラツに似ている気がして、不安な気持ちが顔に出そうになる。ジャファルの方がまだましだった。
奥のハリーファの寝室の扉は大きく開いており、そこにハリーファの姿はない。一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「あぁ、ハリーファ皇子なら、すぐに戻ってくると思うぜ」
黒い客人は、ジェードを見もせずに言うと、長椅子に腰かけた。
少年は、先日ぶつかった時と比べ、今日は上品な黒い長衣を着ていた。頭にもきちんと布が巻かれている。肌の露出が多くないことにジェードは少しほっとした。
ジェードは少年の前を通りハリーファの寝室に入っていった。持ってきた新しい布をいつものようにベッド敷いて整える。そして寝室から出るとき、さっきまで開け放たれていた寝室の扉をそっと閉めておいた。
「ハリーファ皇子の奴隷は、あんただけ? 他にはいねぇのか?」
寝室から出てきたジェードに向かって、少年が話しかけてきた。
「しゃべれねぇのか? それともしゃべらねぇように命令されてるのか?」
「……命令なんてされてないわ」
「ふぅん」
顎に手をやりながら、少年はジェードを見つめてきた。ジェードはこめかみに落ちてきた髪を耳にかけた。
「あの……、この前のことだけど……」
ジェードの言葉に、少年は不思議そうな色を浮かべた。
「この前?」
「聖典を持ってきてくれた日のことよ……」
「あぁ、そうか、前にも会ってたか」
「驚いちゃって……。助けてくれたのに、ごめんなさい……」
あの時、少年の手を取ることを拒んだことを詫びた。ジェード自身、ハリーファが言うように、黒人を侮蔑しているのか自分でもよくわからない。
「わたし、黒い肌の人を見慣れていなくて……」
ジェードの様子を見て、少年はハッと笑った。
「そっか。あんたも、ハリーファ皇子とは違う意味で世間知らずなんだな。今まで、黒人を見たことないのか?」
世間知らずと言われ、ジェードは自分の中の黒い肌に対しての抵抗感に、罪悪を感じた。
「あんたさ、元は家奴隷だったのか? 大方、皇子様お気に入りで、宮廷から外に出れねぇ箱入りなんだろ?」
少年の言う通り、王宮に暮らす家奴隷は、外出しない限り、白人の奴隷達と小麦色の肌の皇族しか見ることがない。そして、女の家奴隷たちが外出する機会はほとんどない。ジェードの素性を知らない者がそう思うのも無理はない。
「櫛やら何やら贈ってもらえるくらい、皇子様に気に入られてるんなら、皇宮から出してもらえなくてもしょうがねぇな」
ジェードは小さく頭を横にふった。
「そうじゃないわ。わたしはヴァロニアから来たから、ここでは知らないことばかりなの」
「……ヴァロニア!?」
ヴァロニアと聞いて、突然少年は声を高めた。ジェードを見る少年の目が大きく見開いた。
ジェードはその声に驚いて、思わず一歩後ずさった。
「……東大陸人の女奴隷?」
少年はまるで独り言のように、ジェードに対して口を切った。
「そうか、あんた……ヴァロニア人だから皇子付きの奴隷になれたんだな。いや、でも、いつ、どうやってファールークに?」
どうやってと聞かれても、村を追い出されたことを言いたくない。ジェードは口を閉ざした。
少年は立ち上がると、黙っているジェードをじっと見すえる。ジェードのそばに来て声を少し低くした。
「二年前のハリーファ皇子の誘拐事件に、あんたも関わっているのか?」
「……誘、拐?」
すぐには意味がわからなかったが、ジェードがハリーファと聖地で出会った時のことだと気がついた。思わず、はっと顔に出てしまう。
ジェードの反応を見て、少年の眉がピクリと動いた。
「誘拐じゃないんだったら、逃亡か? ハリーファ皇子と落ち合う約束をしてたのか? それとも、あんたの手引きで、ハリーファ皇子はヴァロニアへ逃げようとしていたのか?」
「ち、違うわ……」
ハリーファは、【エブラの民】の呪いを解かなければいけないと言っていた。きっと、それがあの時聖地にいたことに関係しているのだ。アルフェラツを【エブラの民】と間違えていたのだから。
ジェードはたどたどしく口を開いた。
「わたしは、聖地でハリに、出会って……、それで……た、助けられて……」
「あの聖典と短剣は、あんたの落し物だったのか?」
少年の質問に、ジェードは黙ってうなずいた。
「なるほどね」
少年は、ジェードに誘いをかけるかのように甘く語りかける。
「ハリーファ皇子は、この宮廷に軟禁されてるだろ? 本当に皇子なのかどうかも、怪しいと思わないか? 異国人のあんたにだって、それ位わかるだろ? ファールークの皇族なのに、あいつだけ金髪で白い肌、それにこの処遇だ」
「怪しくなんてないわ。ハリと宰相は目がとても似ているし、一人だけ肌が白いのは、ハリのお祖父さんが白人だったからよ」
「ふぅん、祖父が白人? なら皇子の母親は? 知ってるのか?」
「もう亡くなってるわ」
ハリーファの血筋を詮索してくることに、ジェードは嫌悪感を覚えた。
ジェードの気持ちを悟ったのか、少年はちいさく笑うと、ハリーファの事から話題を変えた。
「それにしても、あんたはどうやって封鎖された国境を越えてきた?」
少年の質問の意味が、ジェードにはわからなかった。
どうやって、とはどういうことなのだろう。国境には壁が作られているわけでもない。地面に線が引かれているわけでもなかった。ましてや国境には見張りもいなかったのだから、いつ国境を越えたかさえ気づかなかったというのに。
「どう言うこと……?」
本当に何もわからないジェードの態度に、少年は眉をよせた。
「オレも、国境までは何度か行ったことがあるんだ。だけど、あそこを越える気にはさらさらなれない。あそこには、目には見えない壁がある。……あんたは何も感じなかったのか?」
少年は凝然としてジェードを見つめた。
「ヴァロニア、いや、東大陸全体が一民族一信仰だから、西大陸の人間よりもずっと偏見は強いはずだ。国境を越えたら、ヴァロニアは白人だけの国だろ。さすがにオレでも、そこに踏み込むような、くそ度胸はねぇんだよ」
他国に関する知識を持ち、白人だけの国に入ることに拒絶感を感じる少年と違い、ジェードは聖地や西大陸に関して何も知らなかった。黒い肌を見たのも、聖地で会った【天使】が初めてだった。
「西大陸には色んな人種が居る。けど東大陸人なら、黒人なんか、今まで見たことねぇんだろ。どうりで、オレのこと怖がるわけだ」
少年はジェードに詰め寄った。ジェードを壁まで追い詰めると、両手を壁について逃げ場をふさいだ。
ジェードは思わず身を引いた。少年から顔を背けると、壁際の棚が目に入る。その棚の上には、ハリーファが見ていた本や書物が積まれている。ハリーファが適当に積み上げていたものを、ジェードは綺麗に整えて積み直したのだ。
その本が少し移動しているような気がした。ジェードが【王の間】に戻るまでの間に、この少年が勝手に触っていたのだろうか?
ハリーファの不在中に何か探られていたのではないかと、少年に対して不信感が湧き上がってくる。
まだ戻らないハリーファに、ジェードは心の中で助けを求めた。
「オレが怖いのか? なんなら脱いで見せてやろうか? 黒人もあんたら白人と何も変わんねぇぜ」
からかうように、ジェードを追い詰めて言う。黒人少年は腕の中のジェードを見すえた。
ジェードは恐怖心を頑張ってふりはらった。相手は同い歳くらいの少年ではないか。しっかりと黒人少年に向き直る。
「もう黒い肌の人も怖くないわ!」
少年の顔は、間近で見ると男っぽいが、やはりアルフェラツによく似ていた。黒い瞳が、間近では菫色に見えた。
「いや」
「……?」
「今あんたが怖がってるのは、黒い肌じゃねぇ。男だ」
ハリーファからは感じた事のない視線を、この黒人少年からは感じる。ジェードを女として見ている目だ。
「ヴァロニア人ってことは、クライス信仰だもんな。そうだよな」
少年は壁にもたれているジェードの頭の後ろに手を差し込み、髪を留めていた櫛を抜き取った。まとめられていたジェードの髪が肩にふわりと落ちる。櫛はそのまま黒い指先から離れ、カチャンと音を立てて煉瓦の床を転がった。
「白絹の肌か。確かに綺麗だ」
ささやきながら、少年の手がジェードの頬に触れようとしてくるのを察し、ジェードは首をすくめて拒否した。
「さわらないで!」
そう言うと、少年はすぐに壁についていたもう一方の手も離し、ハハッと笑った。
「皇子様の女奴隷に、手出しなんかしねぇよ」
悪びれなく言う少年の言葉は、ジェードにはすべていつわりのように聞こえた。