45-3
字母表を完成させ講義が終了したのは、ジェードのお昼の休憩時間のころだ。
講義に疲れきったジェードはどこかへ行ってしまい、ハリーファは一人、ジェードの書き上げたつたない字母表を眺めていた。幼子のように頼りない文字がほほえましくて、口元がゆるむ。
つい家族に手紙をなどと言ってしまったが、迂闊だったか。かつてはフロリス方面にもファールークの密偵がいたが、今は完全に国交が途絶えている。ヴァロニアに手紙を届ける方法はない。
しかし、以前ソルは否定したが、メンフィスの交易家だけはまだフロリスと繋がっているはずだ。ジェードの家族に手紙を届けるにしても、ソルに頼むしかないとハリーファは考えていた。
だが、いまだにソルの心の声が一度も聞こえないことに、ソルのうさんくささが取りはらえないでいた。
(あいつだけは、何故何も聞こえないんだ)
そう考えていた時、突然ハリーファは嫌な感覚に襲われた。体の中に重いものが入ってきたような感覚だった。
直感でそれは身近な誰かの死なのだとわかった。なぜそんなことがわかるのか自分でも説明がつかないが、昔サライが仲間の死を感じ取ったのもこんな感覚だったのかもしれない。
【王の間】は離れだと言うのに、城内にいる人びとの心のざわめきが頭に流れ込んできた。心の声がざわざわとハリーファにまとわりつく。まるで、ラースが現れ、サライが死んだ時のようだ。
サライが死んだ時とユースフ自身が死んだ時の二回姿を見ただけなのだが、ラースのことを思い出すと、恐ろしさに指が震え出した。
(誰だ? 誰が死んだ……?)
急にジェードの所在が気になり、不安になったハリーファは【王の間】を飛び出した。しかし、ジェードがこの時間どこにいるのかわからない。
照りつける太陽の光が砂地に反射して、外はあまりに眩しい。
ハリーファは、灼けつく陽ざしの中、皇宮内のジェードが行きそうな場所を探して回った。
ジェードは厩舎で馬にかまっているのだろうか?
それとも井戸端で家奴隷たちと歓談しているのだろうか?
厩舎、井戸、薬草園と家畜小屋にも足を運び、出会った家奴隷たちに聞いてみたが、ジェードの姿はどこにも見当たらなかった。今は使われていない鳩小屋にも行ってみたが、そこにもジェードはいなかった。
炎天の下、時々すれ違う家奴隷が、不思議そうにハリーファの挙動を眺める。
他にジェードが行きそうな場所は……。
その時、キューウと鳴きながら、ハリーファの遥か上を白い海鳥が飛んでいった。ハリーファはそれを追うように、海側の城壁へと向かった。
幅の狭い石段の下にたどり着くと、ハリーファは城壁を見あげた。
ここに来たのは、ソルとこの場所で出会って以来だ。頭上から、カカカと海鳥の鳴き声が聞こえてくる。ハリーファはまぶしそうに目を細めて階段をのぼった。
頂上に着くと、そこにはハリーファの捜し求めていた女奴隷がいた。そのまわりには白い大きな海鳥が十羽ほど集まっている。
鳥たちは城壁にやってきた外敵に気づき、突然バサバサと大きく羽ばたいて飛び立った。
「きゃぁっ……!」
大きな羽ばたきに巻き込まれ、ジェードは尻もちをついた。羽毛を散らしながらあわてて飛び立った海鳥たちは、ジェードの周りをわざと旋回するように飛ぶと、海の方向へ飛び去っていった。
「あっ! 待って……!」
ジェードは空を旋回して飛ぶ鳥たちを目で追った。そして、背後にハリーファが来たことに気がついた。
「ハリ……」
ジェードを見つけたとたん、ハリーファは心から安堵した。さっきまで感じていた言いようのない不安は、砂煙が引いたように消えた。
「すまない、驚かせたな」
ハリーファが手を差し出すと、ジェードは素直に手を伸ばしてくる。引っ張って立ち上がらせると少女は少し頬を染めた。
海から波の騒ぎ立つ音と、遠くの空から海鳥の鳴き声が響いてくる。
「あの海鳥、お前が餌付けしてたのか?」
「……そうよ」
ジェードはうなずいた。そして少し気まずそうにしている。
そう言えば、最近海鳥がうるさかった。ジェードが餌付けしていたせいで海鳥が騒がしかったのか。そう気がついてハリーファは笑いを堪えられなくなった。
「だいぶん前から、海鳥がうるさいと苦情が出てたんだぞ」
そう聞いたジェードは驚いたように目を丸くした。だが、そのおかげでソルとここで出会うことが出来た。
「あの鳥、村の海岸近くでも見たことあるの。だから……。ヴァロニアから渡って来たのかと思って」
「あの鳥は渡りじゃない。岸壁に巣を作る鳥だ。海辺なら何処にでもいるやつだ」
「そう」
鳥がヴァロニアから渡ってきたのではないと知り、ジェードは少し落胆したようだった。ヴァロニアと自分を繋ぐものが心の支えになっていたのかもしれない。
波の音にまぎれて、皇宮内にいる奴隷たちの心が今もざわめいているのがハリーファにはわかる。遠くからかすかに聞こえる動物の声も、異変を感じ取ったのかいつもと違う鳴き声をしていた。
「ハリーファ殿下! こんなところにおられたのですか」
壁の下から、ハリーファを呼ぶ声が聞こえた。
「すぐに【王の間】にお戻りください!」
ハリーファは身を乗り出して壁の下を見おろした。イヤスだ。
「何があった?」
上から問いかけてみたが、大声では答えられないようで、ハリーファは狭い階段を下りていった。
「申し訳ございません。実は、アイシャ殿下がお亡くなりに……」
イヤスは下りてきたハリーファに、声を落として伝えた。
「アーランの母上が……」
ハリーファが感じた『死』の感覚は間違っていなかったようだ。
「後程、私が参るまでは、内側から施錠をして【王の間】を出ないようにして下さい」
イヤスの言葉に、ハリーファは黙ってうなづいた。
「……アーランには? 伝えたのか?」
「はい。アーラン様のもとには、先に伝令が向かっております。妃殿下の死因は今医者が調べておりますので」
今朝、ソルが【王の間】に筆記用具を届けた後に、アイシャ夫人を見舞っていたはずだ。薬の量や種類が増えているとは言っていたが。
「殿下、皇宮内で怪しい者をお見かけしませんでしたか?」
イヤスは、ラシードの奴隷、ソルのことを疑っているようだった。それだけではない。ハリーファに対しても少し嫌疑を持っているのが伝わってきた。
「いや、怪しい者は見ていない」
ハリーファはそう答えると、後から下りてきたジェードとともにイヤスに背を向けた。
「戻るぞ」
「誰が……亡くなったの?」
歩きながらジェードが問いかけてきた。
「俺の異母姉の母上だ」
ジェードが誰のことかわからない顔をするので、ハリーファは言い直した。
「宰相の四番目の妻だ」
ジェードはクライス信仰の慣習なのか、両の手を結んで瞑目して祈った。
その様子を見ても、ハリーファは第四夫人の死を悼む気持ちにはなれなかった。
アーランの母が死んだということは、もうソルが宮廷に来る理由がなくなってしまったと言うことだ。
ハリーファは密かに唇をかんだ。