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天国の扉  作者: 藤井 紫
第四章 天使の子 悪魔の子
119/193

45-2

 水位の下がった井戸のまわりでは、今日も水音と一緒に少女たちのおしゃべりが聞こえてくる。

「ねぇ、ルカ、サライって人、知ってる?」

 ジェードに問われて、ルカは考えるまでもなく即答した。

「宮廷にはいないわ。でも、エブラ信仰者に多い名前だから、外にはたくさんいると思うわよ。ここは、みんなモリス信仰でしょ」

 そう言ってから、「あ、ジェード以外ね」と付け足す。

「エブラ信仰?」

「ファールークでは、モリス信仰者の次に多いのよ」

 ハリーファが宮廷を出たのは、ジェードと出会ったあの時だけのはずだ。もしかしたら、その時にサライという名の人物と出会ったのかもしれない、とジェードは思った。

「その人を探してるの?」

 純粋な瞳で問いかけてくるルカに、ジェードは言いたい気持ちをぐっとこらえた。先日、ハリーファが朝に寝言でこぼした名前だ。誰のことなのか気になったのだが、そんなことをルカに教えたら、色々勝手に想像して何を言われるかわからない。

 その同じ日に、ハリーファに手のひらにキスをされた。今思い出しても手がくすぐったくなり、胸がどきどきしてくる。ハリーファにこの気持ちを読まれないようにするのに毎日必死なのだ。

「今日はアルダは他のお仕事なの?」

「ううん、調子が悪いみたいで今日は休んでるわ」

 アルダに相談したかったが、代わりにルカに相談するべきだろうか。

「ルカ、実はね……」

「何?」

「えっと、わたしの住んでた村に幼馴染の男の子の友達がいて……」

 恥ずかしさで素直に話せないが、ルカはとても真剣に聞いてくれている。

「その、わたしの村ではね、挨拶とか、感謝の気持ちでキスしたりするんだけど」

 ハリーファの時のようにドキドキすることはなかった。

「ええええ! そ、そうなの? じゃ、ジェードはキスしたことあるの?」 

 ルカの驚きぶりに、まだ何も話していないのに、これ以上相談してはいけない気がする。

 話を終えるために、ジェードは急に思い出したふりをした。

「あっ、大変! 今日はハリと約束があったんだわ」

「奴隷皇子様とお約束?」

「今日から文字を教えてもらうの」

 そう聞いたルカの瞳が、今度は羨望できらきらと輝きだした。

「文字を? 教えてもらうの?! いいなぁ!」

 ルカはまた何を考えているのだろうと、ジェードはいぶかった。そんなジェードの視線もお構いなしに、ルカは嬉しそうにうふふと笑った。

「モリス信仰では、女奴隷(ジャーリア)に教育を施して妻に迎えると、天国で二倍の報いがあるっていうのよ。だからきっと――」

 やっぱり、さっきの話はしなくて良かったと、ジェードは胸をなでおろした。




 ジェードが息を切らして【王の間】に戻ってくると、すでに準備は整っていた。

 テーブルにはジェードの聖典が広げられ、美しい装飾のついた箱には紙束、インクの入った小さなツボ、そして葦で作られたペンがそろえられていた。

 すでに試し書きをしたのか、何か書かれた用紙もある。ハリーファもずっと応接で待ってくれていたようだ。

「遅れちゃってごめんなさい」

 ルカと話していて少し遅れたことが申し訳なくなった。最後にあんな慣わしを聞かされたので、余計に緊張してしまう。ジェードは平静を保つよう気合を入れた。

 しかし、ハリーファの方はいつも通りだった。今までと何も変わらない。そんなハリーファに促され、ジェードは椅子に座った。

「お前が話す音には、一語ずつそれぞれ対応した記号がある。それが文字なんだ」

 ハリーファはペン先をインク壷につけると、紙に文字を書いた。まるで写本の文字のように美しい書体だ。何が書かれているかわからないが、ジェードはその記号をうっとりと見つめた。

「ほら、ペンを持て。自分の名前くらいは書けないのか?」

「書けないわ。だって習ってないんだもの」

 ハリーファが書いた字母表をもとに、文字の書き方と音の説明を受けた。

「ヴァロニアの文字は、左から右に――うん、そうだ」

 ジェードは手本を見て文字を書いてみるが、思った以上にうまく書けない。まっすぐに線を引くことさえまともに出来ないのだ。そもそもペンの持ち方さえ初めてで良くわからない。

 呆れられたのではないかと、申し訳なさそうにハリーファの顔をちらりとのぞく。すると、予想とは違い優しそうにほほ笑んでいた。若干、まだ小さな子どもを微笑ましく見ているように感じられる。

 ハリーファは椅子に座るジェードの背後にまわった。そして、ジェードの右手を上から握り、正しい文字の形に誘導する。

 ハリーファの介添えに助けられて、なんとか自分の名前が書けた。素直に嬉しく感じたが、喜びのあまり少し緊張がほぐれてしまった。

 今、背中を覆うようににハリーファの身体が触れている。添えられたハリーファの右手は今日も温かかい。井戸水で冷えていたジェードの手が、ハリーファの手と同じ温度になっていた。

 ルカの言うように、ハリーファは自分に文字を教えて、その後妻に迎えようとしているのだろうか? そうすれば、天国で倍の報いを受けられるのだ。

 そんなことを考えていると、

「……俺は、天国になんか行けない」

 ハリーファは小声でつぶやくと、ジェードの手をそっと離した。

「お前を奴隷から解放して妻にしたとしても、俺は天国へは行けないんだ……」

 ハリーファは天使に疎まれているからだろうか。

 沈んだハリーファの声に、ジェードはペンを置いてハリーファの顔を見つめた。

 すると、どうやらジェードの方が悲壮な表情だったらしく、それを見てハリーファの方が苦笑いした。

「お前、洗濯女に何を吹き込まれてきたんだ。安心しろ、俺は別に天国で報いを受けようなんて思っちゃいない」

「別に心配してなんかいないけど……」

 ハリーファの考えていることは、いつもよくわからない。あのキスの意味は、ジェードの勘違いだったのだろうか。

「お前が字を書けるようになれば、ヴァロニアの家族に手紙でも書けるだろうと思っただけだ」

 そう聞いて、ジェードの瞳が大きく見開いた。

「……手紙?」

「ああ。ただ、ヴァロニアに届けられるかどうか、わからないけどな」

 櫛や鏡を贈られたり、聖典や、まだ受け取っていない父親の短剣など、色々なものをハリーファからもらったが、今回は今まで以上に胸が熱くなった。

「どうしたらいいの……、言葉が見つからないわ……。なんて言ったらいいのか……」

「言葉にしなくても、お前の心の声は聞こえてる」

 想いを言葉にできず、ジェードは立ち上がるとハリーファを抱きしめた。感謝のキスをしたかったが、さっきのルカの様子だと文化が違うのだろうと、ジェードは思いとどまった。

 そんな心の内を読んだのか、今日はハリーファもジェードの背中に手を回して抱きとめてくれる。

 ハリーファの腕の中がとても温かくて、ジェードの目に涙が浮かんだ。

「わたし、ここに来てから、泣いてばっかりだわ。村では人前で泣いたことなんて一度もなかったのに。姉さんが死んだ時も、わたしは泣けなかったのよ」

「お前が言っていた。人の心は自由なんだろう? 自分の感情に従って、素直に涙を流せば良い。俺が泣くなと言っても、どうせお前は泣くんだろ」

 ハリーファの言葉に不思議な既視感を覚えながら、ジェードは微笑んだ。

 嬉しくて涙が出るなんて、生まれて初めての経験だ。ヴァロニアにいたときにも、こんなに胸が熱くなるを経験したことはなかったと、ジェードは思った。





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