45-2
水位の下がった井戸のまわりでは、今日も水音と一緒に少女たちのおしゃべりが聞こえてくる。
「ねぇ、ルカ、サライって人、知ってる?」
ジェードに問われて、ルカは考えるまでもなく即答した。
「宮廷にはいないわ。でも、エブラ信仰者に多い名前だから、外にはたくさんいると思うわよ。ここは、みんなモリス信仰でしょ」
そう言ってから、「あ、ジェード以外ね」と付け足す。
「エブラ信仰?」
「ファールークでは、モリス信仰者の次に多いのよ」
ハリーファが宮廷を出たのは、ジェードと出会ったあの時だけのはずだ。もしかしたら、その時にサライという名の人物と出会ったのかもしれない、とジェードは思った。
「その人を探してるの?」
純粋な瞳で問いかけてくるルカに、ジェードは言いたい気持ちをぐっとこらえた。先日、ハリーファが朝に寝言でこぼした名前だ。誰のことなのか気になったのだが、そんなことをルカに教えたら、色々勝手に想像して何を言われるかわからない。
その同じ日に、ハリーファに手のひらにキスをされた。今思い出しても手がくすぐったくなり、胸がどきどきしてくる。ハリーファにこの気持ちを読まれないようにするのに毎日必死なのだ。
「今日はアルダは他のお仕事なの?」
「ううん、調子が悪いみたいで今日は休んでるわ」
アルダに相談したかったが、代わりにルカに相談するべきだろうか。
「ルカ、実はね……」
「何?」
「えっと、わたしの住んでた村に幼馴染の男の子の友達がいて……」
恥ずかしさで素直に話せないが、ルカはとても真剣に聞いてくれている。
「その、わたしの村ではね、挨拶とか、感謝の気持ちでキスしたりするんだけど」
ハリーファの時のようにドキドキすることはなかった。
「ええええ! そ、そうなの? じゃ、ジェードはキスしたことあるの?」
ルカの驚きぶりに、まだ何も話していないのに、これ以上相談してはいけない気がする。
話を終えるために、ジェードは急に思い出したふりをした。
「あっ、大変! 今日はハリと約束があったんだわ」
「奴隷皇子様とお約束?」
「今日から文字を教えてもらうの」
そう聞いたルカの瞳が、今度は羨望できらきらと輝きだした。
「文字を? 教えてもらうの?! いいなぁ!」
ルカはまた何を考えているのだろうと、ジェードはいぶかった。そんなジェードの視線もお構いなしに、ルカは嬉しそうにうふふと笑った。
「モリス信仰では、女奴隷に教育を施して妻に迎えると、天国で二倍の報いがあるっていうのよ。だからきっと――」
やっぱり、さっきの話はしなくて良かったと、ジェードは胸をなでおろした。
ジェードが息を切らして【王の間】に戻ってくると、すでに準備は整っていた。
テーブルにはジェードの聖典が広げられ、美しい装飾のついた箱には紙束、インクの入った小さなツボ、そして葦で作られたペンがそろえられていた。
すでに試し書きをしたのか、何か書かれた用紙もある。ハリーファもずっと応接で待ってくれていたようだ。
「遅れちゃってごめんなさい」
ルカと話していて少し遅れたことが申し訳なくなった。最後にあんな慣わしを聞かされたので、余計に緊張してしまう。ジェードは平静を保つよう気合を入れた。
しかし、ハリーファの方はいつも通りだった。今までと何も変わらない。そんなハリーファに促され、ジェードは椅子に座った。
「お前が話す音には、一語ずつそれぞれ対応した記号がある。それが文字なんだ」
ハリーファはペン先をインク壷につけると、紙に文字を書いた。まるで写本の文字のように美しい書体だ。何が書かれているかわからないが、ジェードはその記号をうっとりと見つめた。
「ほら、ペンを持て。自分の名前くらいは書けないのか?」
「書けないわ。だって習ってないんだもの」
ハリーファが書いた字母表をもとに、文字の書き方と音の説明を受けた。
「ヴァロニアの文字は、左から右に――うん、そうだ」
ジェードは手本を見て文字を書いてみるが、思った以上にうまく書けない。まっすぐに線を引くことさえまともに出来ないのだ。そもそもペンの持ち方さえ初めてで良くわからない。
呆れられたのではないかと、申し訳なさそうにハリーファの顔をちらりとのぞく。すると、予想とは違い優しそうにほほ笑んでいた。若干、まだ小さな子どもを微笑ましく見ているように感じられる。
ハリーファは椅子に座るジェードの背後にまわった。そして、ジェードの右手を上から握り、正しい文字の形に誘導する。
ハリーファの介添えに助けられて、なんとか自分の名前が書けた。素直に嬉しく感じたが、喜びのあまり少し緊張がほぐれてしまった。
今、背中を覆うようににハリーファの身体が触れている。添えられたハリーファの右手は今日も温かかい。井戸水で冷えていたジェードの手が、ハリーファの手と同じ温度になっていた。
ルカの言うように、ハリーファは自分に文字を教えて、その後妻に迎えようとしているのだろうか? そうすれば、天国で倍の報いを受けられるのだ。
そんなことを考えていると、
「……俺は、天国になんか行けない」
ハリーファは小声でつぶやくと、ジェードの手をそっと離した。
「お前を奴隷から解放して妻にしたとしても、俺は天国へは行けないんだ……」
ハリーファは天使に疎まれているからだろうか。
沈んだハリーファの声に、ジェードはペンを置いてハリーファの顔を見つめた。
すると、どうやらジェードの方が悲壮な表情だったらしく、それを見てハリーファの方が苦笑いした。
「お前、洗濯女に何を吹き込まれてきたんだ。安心しろ、俺は別に天国で報いを受けようなんて思っちゃいない」
「別に心配してなんかいないけど……」
ハリーファの考えていることは、いつもよくわからない。あのキスの意味は、ジェードの勘違いだったのだろうか。
「お前が字を書けるようになれば、ヴァロニアの家族に手紙でも書けるだろうと思っただけだ」
そう聞いて、ジェードの瞳が大きく見開いた。
「……手紙?」
「ああ。ただ、ヴァロニアに届けられるかどうか、わからないけどな」
櫛や鏡を贈られたり、聖典や、まだ受け取っていない父親の短剣など、色々なものをハリーファからもらったが、今回は今まで以上に胸が熱くなった。
「どうしたらいいの……、言葉が見つからないわ……。なんて言ったらいいのか……」
「言葉にしなくても、お前の心の声は聞こえてる」
想いを言葉にできず、ジェードは立ち上がるとハリーファを抱きしめた。感謝のキスをしたかったが、さっきのルカの様子だと文化が違うのだろうと、ジェードは思いとどまった。
そんな心の内を読んだのか、今日はハリーファもジェードの背中に手を回して抱きとめてくれる。
ハリーファの腕の中がとても温かくて、ジェードの目に涙が浮かんだ。
「わたし、ここに来てから、泣いてばっかりだわ。村では人前で泣いたことなんて一度もなかったのに。姉さんが死んだ時も、わたしは泣けなかったのよ」
「お前が言っていた。人の心は自由なんだろう? 自分の感情に従って、素直に涙を流せば良い。俺が泣くなと言っても、どうせお前は泣くんだろ」
ハリーファの言葉に不思議な既視感を覚えながら、ジェードは微笑んだ。
嬉しくて涙が出るなんて、生まれて初めての経験だ。ヴァロニアにいたときにも、こんなに胸が熱くなるを経験したことはなかったと、ジェードは思った。