44.赦罪
入口の扉の音が耳に届き、ハリーファは浅い眠りから目覚めた。
――昨夜はよく眠れなかった。窓の外がだんだんと明るくなった頃、ようやくうとうとと眠りについたところだった。サライの夢を見ていた気がする。
応接のテーブルの上には、すでに朝食が並べられていた。入口の方から、ガタガタと音がするので廊下に出ると、予想通り水がめを抱えた少女の姿を見つけた。
前日の聖典の事を、ハリーファは眠れないほど気に病んでいたが、ジェードの様子は、一見していつもと変わらないように見えた。
「あ、おはよう、ハリ」
今日もジェードの黒い髪は、ハリーファが贈った櫛を使って、涼しげにまとめられている。しかし、相変わらず遅れ毛がこぼれて、どことなく幼く見えた。サライとは逆だ。
「さっき声をかけたんだけど、よく寝ていたみたいだったから」
一見元気そうに見えるジェードだったが、心の中は複雑な思いで曇っていた。
「まだ眠そうよ。顔を洗う? お水を持っていくわ」
「……昨夜、よく寝れなかった……」
昨夜眠れなかったのは、ジェードのせいだ。初めは、破いた聖典の事が気になって眠れなかったのだが、聖典を届けにジェードの部屋を訪れたあとは、ジェードの真白な肌やしどけない素足が頭から離れなかったのだ。
「ずっと起きてたの? ……もしかして、夜中、わたしの部屋に来た?」
応接に置いていたはずの聖典が自分の部屋に移動していた理由に気づいたようだ。恥ずかしいのか、最後は声が小さくなった。
「聖典を忘れていたから、届けに行ったんだが……」
ハリーファに寝姿を見られたことに、ジェードは少し頬を染めた。
「昨夜、悪かった。お前の聖典を……」
ハリーファが謝ると、ジェードはハリーファから目をそらした。
「……ううん、わたし、前からあの悪魔の絵が大嫌いだったの。でも、わたしは文字も読めないし、聖典を破ることなんて、やっぱり出来なくて……」
ジェードはそこで言葉を止めた。頭では理解できても、やはり聖典を破るという行為におびえているようだ。
「ハリに悪いことが起きないか怖いの……」
自分を殺す天命を持っているはずのジェードが、自分のことをこんなに気にかけてくれているのを感じると、温かくて不思議な気持ちになった。この感情に何と言う名前を付けたらよいのかハリーファにはわからなかった。
「ジェード、お前に文字を教えてやる。字が読めれば、絵のページは必要ないだろう?」
「文字を? 教えてくれるの?」
ジェードは黒い瞳を大きく開き、ハリーファの方を向いた。
ここ最近ハリーファは、物を贈る以外に、ジェードのためにしてやれることがないか考えていた。
「そうね。字が読めれば、挿絵はいらないし、まだ知らないところも自分で読めるようになるわ」
ぱっとジェードの顔が明るくなった。曇っていた心の中も少しずつ晴れてきたのを見て、ハリーファは安堵した。
「……わたし、ゆうべ、あの後、一人で考えてたの。あの聖典の絵なんだけど、ハリの言うとおり、正しく描かれていないんだわ」
そう言って、ジェードは心の中に黒い肌のアルフェラツの姿を思い描いていた。あの絵を描いた画家も、ジェードと同じように、本当の天使の姿は知らなかったのかもしれない。
ジェードが自分の行為の意味を理解してくれたことで、ハリーファは昨夜から抱えたままだった胸のつかえが下りた。
「天使様の絵だけじゃなくて、悪魔も黒山羊も間違いかもしれないわね」
気を取り直したジェードの言葉に、ハリーファの心臓が強く打った。ジェードの予想どおり、あの聖典は悪魔の姿も正しく描かれていない。ジェードがそのことに気づいたことに、ハリーファの顔が強張る。
ジェードはそんなハリーファの様子には気づかず言葉を続けた。
「わたし、聖典に書かれていることを、全部覚えているわけじゃないんだけど、今知っている部分に、天使様や悪魔の姿については、何も書かれていないわ。……それに【天使】様は、魔女が本当に存在するって教えてくれたの。もし悪魔が本当にあんな恐ろしい姿なら、怖くって、悪魔と契約するなんてとても出来ないんじゃないかしら。それとも、悪魔は人を脅して契約を迫るの?」
ハリーファは何も答えられなかった。
ジェードの言うとおり、悪魔の本当の姿はクライスの聖典に描かれていた異形の姿とは違う。ラース・アル・グフルは、金の髪の恐ろしいほどに美しい男だ。
ずっと黙ったままでいるハリーファを、ジェードは不審な顔で眺めた。
「ハリは悪魔の姿を見たことあるんでしょう? 前に、名前も知ってるって言っていたわよね」
「……知りたいのか?」
ジェードは少しおびえながらうなずいた。好奇心もあるようだ。
ラースの姿――。
ハリーファが真っ先に思い浮かべたのは、鏡に映った自分の顔だ。闇に浮かぶ明るすぎる金色の髪、力強い木々の葉の翠の瞳。
親と子か、それ以上に【悪魔】とハリーファの容姿は似ている。まるで、自分が悪魔の分身であるかのようだ。それに加え、他人の心を見透かす人知を超えた能力。それが【悪魔】の持つ能力と同じだと言う事を、ハリーファはあの後ずっと考えないようにしていた。
今も、ジェードの瞳の中に【悪魔】の顔が映っている。
「ごめんなさい、やっぱりやめておくわ」
自分が言い出した話で、ハリーファが気分を害したのだと、ジェードはかん違いしたようだ。
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
確かに、昨夜色んなことを思い悩みすぎて寝不足なのだろう。軽く頭痛がする。ただ、その原因は悪魔の話でも、聖典のことでもない。昨夜気づいたジェードに対する自分の気持ちが原因だ。
大丈夫だと言う代わりに、ハリーファは少し笑ってみせた。
しかし、ジェードの方はハリーファの気持ちを知るはずもなく、申し訳なさげにハリーファを見つめてくる。
水がめを床に置き、ハリーファのそばにやって来た。上目遣いにハリーファを見あげて、金色の前髪の下にそっと手をすべり込ませた。
額にふれた細い指は、かすかに湿度を帯びて、ひんやりとしていた。ハリーファの熱がジェードの手に吸収されていく。
「……熱があるんじゃない?」
そう言いながら、額にそえていた手をジェードが離そうとしたとき、ハリーファはそれを捕えた。
「……お前の手は、冷たいな……」
捕えたジェードの手を、熱った頬にあてる。
「……気持ちいい……」
ハリーファは目を閉じて、かすれた声でつぶやいた。
この手の冷たさにおぼえがある。ユースフの家を訪れたときの、サライの手の温度と同じだ。ハリーファはそのまま、わざとジェードの手のひらに唇をよせた。
ハリーファの思いを感じとったのか、今度はジェードの顔が真っ赤に染まる。声は出さずに、あわててハリーファの手をふりほどいた。
「ぃ、井戸水で、冷えたからよ!」
動揺してジェードの声が震えていた。赤く染まった顔を隠し、逃げるように身をひるがえすと、床の水がめを抱えてばたばたと【王の間】を出ていった。
ジェードは人の心は読めないはずなのに、どうして自分の思いが伝わったのかと不思議だった。
ハリーファは追うこともせず、ジェードの後姿を見送る。少女が去った後、立ち尽くしたまま深く息を吐き出した。
ハリーファは寝室へ戻り、ベッドに仰向けに倒れた。
ジェードとかかわるうちに、忘れていた過去の記憶が鮮明になる。わかろうともしなかったサライの気持ちが、ジェードを通して伝わってくるように思えた。
サライのことを知ろうとしなかったことや、自分の気持ちを何も話さなかったことで、サライを傷つけて寂しい思いをさせていたのだろう。
最期に触れたサライの頬は、ひどく冷たかった。
『わたしは奈落でもユースフのそばにいたい。……ユースフに殺されてもいいよ』
サライの声が脳裏によみがえる。
ヴァロニアからの帰途、殺されてもいいとユースフの腕の中でそうつぶやいたサライ。
なぜ、サライをドームから連れ出さなかったのか
なぜ、抱きしめた腕を離してしまったのか
なぜ、サライに愛していると言わなかったのか
今頃気づいても遅すぎる。
――胸がつぶれるように苦しくなった。
ハリーファは、やりきれなさに、両手で顔をおおった。
サライが死んだときに出なかった涙が、ようやく、ハリーファの憂いた瞳からこぼれおちた。