43-3
修道所に戻ったユースフとサライは、他の巡礼者達と同じように、麦粥だけの質素な夕餉を振る舞われた。ユースフには、薄暗い食堂で人々が粥をすする音がひどくさびしげに聞こえた。そして日が沈んだ頃、二人は修道所を後にした。
空には幾望の月が浮かび、道を淡く照らす。巡礼者たちは夜は必ず身を休めるので、歩いているものは誰も居なかった。月明かりの下でも、グハンナメイヤだけは炎のように燃えて進む道をしめす。聖地へと帰ってゆく二人を見送った。
帰途、サライは馬上で、時々ユースフに身を持たせかけた。疲れて眠っているのかと思っていたが、途中サライはポツリとつぶやいた。
「今日は連れてきてくれてありがとう。ここに来てわかったわ。人は、死に向かって歩んでいるんだって」
人々は、願いを叶えるために、聖地を目指してやってくる。そんな外界の事を知って、サライなりに何か感じたようだった。
「あそこは、死に場所なのね」
遠くに見えるオス・ローをサライは指差した。日が落ちオス・ローの街の麓には、小さな灯りがちらついていた。丘の頂上の城砦は、真っ暗で月明かりが影を作る。その姿は、さながら墓標のようだった。
「……そうだな」
聖地で生まれ、聖地で死んでいく【エブラの民】にとって、オス・ローは間違いなく死に場所、――墓場だ。そして、サライの言うとおり、外界の人間にとっても、聖地は墓場なのだろうとユースフは思った。
「あそこで死んで、扉をくぐるのね」
ユースフの腕の中で、サライはささやいた。
エブラの民は信仰を有形化する。ドームの正面に作られた石の扉の呼び名は【天国の扉】だ。
【天国の扉】の向こう側に暮らす【エブラの民】。彼らを神の末裔として信仰する外界の人間は、扉の向こう側は天国だと信じている。だが、そこで暮らすサライにとって、本当にそこは天国なのだろうか。
「わたしは、奈落でもユースフのそばにいたい。……ユースフに殺されてもいいよ」
「馬鹿なこと言うな」
サライを殺せるはずなどない。サライは【エブラの民】だ。
幼い頃から【エブラの民】を敬神し、人生を捧げているユースフには、サライの神格を自分の本質から払拭しきれなかった。
どちらかが死ぬまで、そばにいて――。
これはサライから与えられた罰だ。むごい罰だとユースフは思った。サライを天使として愛することをゆるしてはくれない。
ユースフは、沸き上がってくるサライの聖性を心の中で押し殺した。
* * * * *
その後も、ユースフの家の戸は五回叩かれる。
ユースフがランプ手にして入り口の戸を開けると、そこにはいつもの笑顔があった。
二人は小さな声で言葉を交わす。ランプはリビングのテーブルの上に置き、ユースフの部屋へと階段を上る。
明かりの無い部屋で、二人は服を脱ぐと抱きしめあった。サライの冷えた身体はユースフの熱で徐々に溶けてゆく。狭いベッドに二人横たわり、互いの鼓動を聞き、腕と脚を絡めた。
暗闇の中では、サライの肌も髪も瞳の色もわからない。それだけがユースフには救いだった。時折サライの漏らす声が、ユースフの罪の意識に爪を立てて引っかいた。
祈りの泉の前で誓ったように、ユースフはサライが望むようにサライを抱く。――まるで男娼のようだと、我ながら愚かしく思った。だが、天使を愛することは決して赦されない。
己の心の矛盾に苦しみながら、ユースフはサライをただ優しく抱き続けた。
早春の時間、木窓の隙間がかすかに明るくなってきた。
まだ部屋の中は薄暗い。ユースフの隣で寝そべっていたサライは、枕の下から何かを取り出して眺めていた。
ユースフが覗き見ると、それは、以前ユースフがサライに贈ったグハンナメイヤの花が彫られたフロリス製の櫛だった。
「まだ持って帰ってなかったのか」
自分の枕の下にそんなものがあるとは、ユースフは全く気づいていなかった。きっと寝床を整えている奴隷が、ご丁寧に枕の下にあったものは枕の下へと戻してくれていたのだろう。
「これ、すごく気に入ってるの。このお花の花言葉も好きなの」
サライは、うつぶせのまま両手のひらに櫛をのせ、それを眺めてほほ笑んでいる。
一緒にヴァロニアまで行ったあの時、ほんの思いつきでやっただけだったのだ。それがこんなに喜んでもらえていたとは思ってもいなかった。当然、ユースフが花言葉など覚えているはずもない。
「それなら持って帰れ。間違って踏んだら曲がってしまいそうだ」
「本当はね、いつも持っていたいんだけど……」
サライは、しょんぼりと櫛を眺めた。
「あそこから外へ出る時も何も持って出られないし、中へも何も持って入れないの」
「そうか」
サライがドームを出入りしていることが他の【エブラの民】にばれたら、大変なことになってしまう。葬儀以外の生活活動の全てを、あの城壁の中で行っている【エブラの民】にしてみれば、この櫛一つでさえ、外界の異物でしかないのだろう。
「【天国の扉】は何も持って通れないの。だから、ここに置いておいてもいい?」
「別に構わないが……。枕の下におくのはやめてくれないか?」
「良かった! うれしい!」
木窓の隙間から漏れる光のおかげで、目は薄暗さにすっかり慣れてきた。
サライは身体を起こすと、今更恥らうように毛布を引き上げ胸を隠す。ユースフに背を向ける動きが、どこかあどけなく、まだ少女っぽい。
ユースフを背に、サライは櫛で自分の白い髪をといた。くしゃくしゃに絡まっていた髪が、櫛をとおすたびにまっすぐにさらさらと背中に流れる。サライはすいた髪を両手で束ねてくるくるとねじると、そこに櫛を挿して器用に髪をとめた。櫛は髪をすくだけのものだと思っていたユースフは、あらわになったサライの背中と項を恍惚とした表情で眺めた。
「どう?」
胸元を隠しながら、サライが自慢げにユースフを振り返った。首を後ろにひねった瞬間、櫛はあっけなく髪からすべり落ちた。せっかくの巻き髪は崩れてしまった。
髪はさらさらと背中に流れ落ちた。サライは再び髪を後ろ手に拾ってかき上げる。その姿勢がしなやかな身体のラインを強調した。
髪結を失敗してサライは肩を落としたが、その一連の様子にユースフは色情をかき立てられた。
予期せずユースフの情欲を煽ることに成功したサライは、首筋から背中にユースフの口付けを浴びる。
――これは罰だ
そう自分の心をいつわりながら、ユースフはサライを後ろから抱きしめる。
二人は再びベッドへと身を沈めた。
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