43-2
ユースフの左手にも、太い鉄の指輪がはめられている。薬指にはめられた指輪は、まるで手かせのように重い。王の従兄妹を一人目の妻として迎えたときに、王から与えられたものだ。
「……これは、忠誠の証だ。シュケムの王との……」
ユースフの言葉の途中で、サライはくしゃみをした。濡れたままの足が冷えてきたようで、サライは震えている。
ユースフは、サライの前にしゃがんでひざまずいた。そして、サライの片足を取って、自分の膝の上に乗せさせる。濡れた足から水がしみこみユースフのひざが濡れるが、そんなことは気にならない。持っていた布切れで、サライの足をやさしく拭いてやった。
「サライ、お前の望みはなんだ? さっき何を願おうとした?」
サライに靴をはかせながら問いかける。
「えっと、ユースフが……」
「うん、俺が?」
サライの顔を見つめながら、反対の足も同じように拭いた。
「ユースフがね、わたしのことを離しませんようにって」
言いながら、いつものように満面の笑みを向ける。
サライの願いがあまりにつまらなく卑近だったことに、ユースフは気抜けした。この娘は色恋にうつつを抜かす市井の少女となんら変わりない。呆れながらも、そういう自分にはない素直さや単純さを、ユースフは愛しいと感じ心が癒される。
「そんなつまらないこと、わざわざ神に願うことじゃないな」
ユースフがあきれた声で言った。
「つまらなくないよ! わたしには大事なことなの! それに、神様じゃなくて、さっきユースフが叶えてくれるって言ったじゃない」
「そうか。そうだったな」
ぷいっと怒るサライの様子に、もの憂いた表情のユースフにも明るい微笑がわいた。
靴をはかせてもらったサライは、しゃがんだままのユースフの顔を覗きこんだ。
「ねぇ? ユースフの願いはなに? わたしもユースフの望みを叶えてあげる」
「俺は……」
そこまで言って口を閉ざす。ユースフの頭に真っ先に浮かんだのは、父ファールークの事だった。
どこに居ても『シュケムの英雄』の名が付きまとう。自分の意思と力で得たと思った自由も、あっけなく父親の監視の下におさまってしまう。いつまでも首根っこをつかまれて、所詮、掌で踊らされている。
どんなに抗っても、父親の呪縛から逃れることが出来ない。シュケムを離れても今なお父につけられた足かせがユースフの自由を奪っている。
ユースフも、多感な頃に胸中を吐露して抵抗したこともあったが、功をおさめたことなど一度もないのだ。『シュケムの英雄』の異名を持つ父ファールークは、他人の話を聞いても、決して聞き入れることはしなかった。この父親との関係は、きっと死ぬまで変わらない。おそらく父が死んでも抗えないのだろう。
今では、父との確執を克服しようとさえ思わなくなってしまった。ただ元凶なる父親の下を離れて、自分の心が壊れないようにするのが精一杯だ。
――ユースフの望むことを、サライが叶えられるはずがない。
ユースフはゆっくりと立ち上がり、頭をふった。
「いや……、俺の願いは、神頼みしないと叶いそうにはないな」
願いを託さない事をサライが怒るかと思われたが、ユースフの返事を聞いてサライは寂しそうに視線を落とした。
サライは何か言おうとして口を動かしたが、思いあぐんでその口を結んだ。そして、少し伏し目がちになり、ユースフと目を合わさないまま口を開いた。
「現世に生まれてから、神様が与えてくれるものは、『死』だけだよ。だから、苦しまず、穏やかに、『死』を迎えられるように、皆祈ってるんだよ。祈りは、神様にじゃなくて、自分の心に。心が穏やかに『死』を受け入れられるように。きっとこの泉も同じ。皆ここで祈るんだね。人の心の象徴なんだね」
ユースフは、サライの意図することが理解できなかった。
「……それは、【エブラの民】の信仰なのか?」
死をもたらす悪魔のことを、サライは神と呼ぶ。そして全ての根源は、人自身の心が生み出すのだと語る。
ユースフは、『エブラ信仰』と『【エブラの民】の信仰』とが違うことにうすうす感づいていたが、今それをはっきりと確信した。
「俺は、神は心を救済してくれるんだと思っていた……」
「神様は、何も罰したりも、許したりもできないよ。心に罪悪を生み出してるのは、ユースフ自身なんだよ」
そう言われ、ユースフは何も言葉が出なかった。
「心の救済をすることができるのは、涙なの」
気付かなかったとはいえ、サライには岸壁で涙するユースフの姿を目撃されていた。普段なら、不甲斐なさに羞恥を覚える所だ。しかし、今【エブラの民】の信仰を語るサライに、そのような感情は全く湧いてこなかった。
「ねぇ、ユースフは、なぜ救いを求めているの?」
一瞬、周りの音が止まった。
木々の葉をかすかに揺らす風の音も、遠くに聞こえる鳥の声も、ユースフの周りから消えた。小刻みにちいさく揺れていた泉も動きが止まり、周りを流れる時が静止した。
ユースフの頭の中で、鉄鎖の砕ける音が響いた。
――自分は、救いを求めている?
そう言われて、ユースフの心をがんじがらめにしている鎖が緩むのを感じた。
自分は、ずっと救いを求めていたのだろうか? 差し伸べてくれる手を待っていた? 愛されることを望んでいた?
誰に愛されたかったのだろうか。父親に? 母親に? そんな自分の本当の心にさえ気づかないでいたのか。サライの言葉は、奈落をさまようユースフの魂を、出口へと導いてくれるかのようだった。
サライは、祈りにも似たひたむきな表情を浮かべ、その菫色の瞳はユースフの漆黒の瞳を見つめる。
結婚を課せられた妻や、打算で付き合う女とは違う。サライは、ただユースフを愛してくれていた。何の見返りも求めず。そうして、今までサライに救われていたのだ。
サライが愛おしい。心の中に暖かい感情があふれてくる。
しかし、ユースフの心にはもうひとつの感情もわきあがった。
救いを求めるユースフに、手を伸べてくれたのは神ではない、――サライだ。そして、サライは【エブラの民】だ。今まで失いつつあったサライの聖性がにわかによみがえって、ユースフの心を埋めてゆく。
「サライ……、やっぱりお前は、俺にとっては天使だ」
こんな事を言うつもりでサライを誘ったわけではなかったはずなのに。サライをここに連れてくるべきではなかった。ドームから外に出すべきではなかった。いや、出会った時点で間違えてしまった。
サライに対する内なる想いが、ユースフの口からこぼれる。
「……俺たちは、間違っている」
途端に、サライの顔に悲哀が浮かんだ。
「わたしは天使じゃない!」
サライはとっさにユースフの言葉を否定するが、ユースフの言葉の本心を知って瞳を潤ませた。そういう姿は、天使ではなくただの少女なのだが。今のユースフにとっては、余計に心を混乱させるだけだった。
「……いや、お前は間違っていない。間違えたのは俺の方だ」
サライは次に切り出される言葉におびえて、ユースフの胸中に飛び込んだ。
「いやよ。ねぇ、ユースフ! わたしは自分の良心に従いたいの! 間違いとか、あってるとか、そんなことどうでもいいの!」
サライは、戸惑うユースフの背中に両腕を回し、しがみ付くように抱きついて離れようとしない。
「ユースフが好き」
ユースフを見上げる菫色の瞳に涙が浮かんでいた。ユースフは間近に見るサライの涙に、心を突き刺される思いだった。
ユースフは、自分の背できつく結ばれたサライの手をそれぞれつかむと、力で簡単にほどいた。そして捕えた手をサライの胸の前に持ってくる。両手でサライの手を包み込むと、今度は敬愛の想いを込めて、サライの前にひざまずいた。
そして懺悔するようにサライを見あげた。
「俺は、どんな罰でも受けよう。お前の為にどう償えばいい? 俺に罰を与えてくれ」
そう言われ、サライはユースフを抱きしめた。胸にユースフの頭を抱えるように優しく包み込んだ。
しかし、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、わたしか、ユースフか。どちらかが死ぬまで、そばにいて」
サライは、ユースフの漆黒の髪に黒い指を絡め、その頭上にそっと頬を寄せる。
サライの言葉はひどく悲しい色をしていた。
二人が決して結ばれることがないことは、サライもわかっているようだった。
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