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海岸沿いを過ぎると、地面は乾いた砂地から徐々に赤褐色へと変化した。
東の大陸の朝はひんやりと湿気をおび、空気は土の匂いがする。
あたりには石垣が点在し、周囲に生えている低木の表面には、細かな朝露がついている。石垣にはグハンナメイヤが群生していた。早朝の弱い光の中でも、グハンナメイヤの濃ピンクの花は、燃えあがる炎のように咲きこぼれている。まるでヴァロニアへ向かう道を彩るかのように。
サライはグハンナメイヤの鮮やかな色に心を奪われている様子だった。
「ねぇ、あそこからヴァロニアなの?」
ユースフの両腕に挟まれていたサライが、前方を指差した。指し示したところは森の入り口だった。並び立つ木々はまるで緑と茶色の壁のようだ。一本の街道がその森の中に向かってのびている。
「ここはもうヴァロニアだぞ」
「えっ? こっきょうは?」
「さっき過ぎた」
「そうだったの? 見たかった、こっきょう」
「見るものなんて何もないさ」
ユースフの言葉に、サライは不思議そうに首をかしげた。
「国境と言ったって、壁があるわけでもないし、地面に線が引かれているわけでもない。何もないんだ」
「そうなの? どうして何もないのに、そこがこっきょうだってわかるの?」
「ここから少し南に行くと巡視隊の兵舎があるんだ。それと結ぶように、北に行けば大岩がある。それが目印だ」
「ふうん、そうなんだ」
やがて二人を乗せた馬は、先程サライの指し示した森の中へと入っていった。
森に入ると、辺りはいっきに暗くなり、気温は急に下がった。サライは森のトンネルを見上げた。深緑の屋根が覆いつくし、光はほとんど入ってこない。葉の隙間にちらちらと見えるきらめきはまるで星のようだった。低木しか育たないオス・ローでは、こんな背の高い木々はまず見られない。
身体が冷えたのか、サライは身震いした。少し後に下がってユースフに身を寄せる。
欝蒼としたトンネルを抜けると、森の景色が少し変化した。ようやく天からの光が地面にまで届く。サライはひとり感嘆の声をもらし、木漏れ日にわれを忘れた。
耳を澄ますと、遠くから鳥のさえずりや獣の声が聞こえてくる。前方に森の奥へと逃げ込む鹿を見つけて「あれは何!?」とサライは興奮を隠せずにいた。
「壁の外にはこんな世界があったなんて! 一体どんな人たちが生活してるの?」
そんなサライの反応は、ユースフの予想通りで、傍にいるユースフを楽しませた。
途中、巡礼者の集団とすれ違った。街道を馬でゆっくりと進むユースフたちとは反対に、彼らは聖地を目指して歩いている。皆一様に毛織の外套をはおり、太い木の枝を杖にしている。何人かが何か歌っていたが、ユースフたちの姿を見つけると歌うのをやめた。
ユースフたちが前を通ると、巡礼者たちは胸の前で十字を切った。そして、両手のひらを合わせ頭をたれる。
「俺たちを、聖地から帰還した者だと思っているようだ」
ユースフはサライにだけ聞こえるよう小声で言った。
サライは、深くかぶったフードの陰から、その様子を不思議そうに眺めた。
聖地へと向かう巡礼者の多くは、何かしら病気を抱えている。そのため、目的を果たせないまま道中で絶息する者も多い。聖地オス・ローの囲いの中で暮らすサライは、そんな事実を知るはずもなかった。
ラドムはヴァロニアの国境から一番近い修道所だ。
修道所は、聖地巡礼者の行きと帰りを見送る拠点だった。修道所には、たいてい小さいながら宿泊施設、病院が併設されている。そこに生涯をささげる神父は、行きよりも帰りの旅人の数がずっと少ないことを、身にしみて感じていた。
そんな修道所に、めずらしく聖地方向から人が来訪した。ユースフたちがラドム修道所に到着したのは、昼を少し過ぎたころだった。
黒髪の聖地の番人は、若い修道士に伴われて神父の元に案内された。
サライはフードを深くかぶり、黙ってユースフの後ろに沿うように立っていた。
「ああ、軍務長官殿、こんな所まで、何度も……。感謝いたします」
神父は、ユースフに感謝の言葉を述べた。その視線が、ユースフの後ろの人物に向けられる。いつも単独で行動するユースフが、供を連れてきていることに驚いている様子だった。
「感謝は私ではなく、伯父にしてください」
ユースフが神父に小さな麻の袋を渡した。それを受け取った神父は、目の前で十字を切ってユースフに頭を下げた。
「どうか、『シュケムの獅子』とそのご親族に、天使のご加護を」
そう言って、神父は速やかにその小袋を若い修道士に渡した。修道士はユースフに軽く会釈すると、先に退室した。
「シフナ殿。いつものように、受領の証明としてヴァロニアの品をお持ち帰りください」
神父は、粗雑な造りのマントルピースの上から木箱を手に取った。そこには、一目でヴァロニア製の品物とわかる、帯留、ナイフ、拍車など、さまざまな物が並べられている。これらは、この宿泊所を利用したものが対価として納めていったものや、病院で息絶えた者たちの遺品だった。
ユースフは、いつもなら適当にオス・ローで換金できるモノを選ぶのだが、神父の持つ木箱を目の前にして、鋼細工の櫛を選んだ。
神父はまさか櫛を選ぶとは思っていなかったようで、あわててユースフに言った。
「そのような装飾品では、換金ができないのでは?」
神父は心配そうに助言したが、ユースフが後ろにいる供にその櫛を手渡すのを見て口を閉じた。フードの下が少女なのだとわかり、その表情を緩めた。
サライが受け取った鋼細工の櫛は、グハンナメイヤの花を模した飾りが彫られていた。花の部分には、巧妙に赤さび色に焼き色が付けられている。
「ヴァロニアには聖地の花は咲きません。なににどうして、職人はその花をその櫛に描いたのでしょうか。この櫛は、誰かが誰かを想って作らせたものなのでしょうな。
聖地の花の花言葉をご存じですかな。その花は『情熱』、『あなたしか見えない』、『わたしはあなたを信じる』、そういう意味がございます」
物珍しそうに、手の中の櫛を眺めるサライに、神父は言説した。
巡礼者の通る時間と夜間は、国境にシュケムの軍人が居る。ユースフは問題なく通れるが、オス・ローの住人に、サライの姿を見られたくない。オス・ローへの到着を夜半にするため、ラドムを出発するのは日が落ちてからにする予定だった。
「それでは、日没前に夕餉をお出しします。どうか出発の時間まではお休みください」
そう言って、神父は巡礼者の為の宿泊所を使うように勧めてくれた。
「今回は、祈りの泉まで物見に行こうと思っています」
ユースフは神父の気遣いを断ったが、では戻ってきたら夕餉だけはと説得された。