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天国の扉  作者: 藤井 紫
第四章 天使の子 悪魔の子
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42.【天国の扉】(一)

・゜゜・*:.。. .。.:*・゜゜・*:.。..。:*・゜゜・*:.


 冬の時間が終わろうとしていた。

 オス・ローの上空はまだ真っ暗だが、海の方角を眺めると、東の水平線が白んでいる。

 いつもなら、ユースフとの別れを惜しんでいる頃だ。

 サライは、城壁の西側の小さな石の隠し戸をそっと開いた。城壁の外からはわからない見事な隠し戸だ。大人の男が一人、何も持たずにようやくくぐれる程度の小さな出入り口だった。この扉の存在は、成人してから【エブラの民】の仲間から教えられた。外界の人間には、決して知られてはいけない。

 サライは外に人がいないかを確かめる。身を屈めて小さなくぐり戸をぬけ、こっそりとドームを抜け出した。

 ちらつく星明りの下、サライは広場を走り抜け、大通りへと向かった。勢いよく走ると、頭に巻いた布が風ではずれそうになる。

 ドーム付近の家々は、まだ寝静まっていた。丘の上方の居住区は、この時間帯はほとんど誰も外に出てこない。人に出会うことはないとわかっていたが、サライは片手で頭を押さえ、もう片方の手で服の裾を持ち上げた。

 サライははやる気持ちを抑えきれず、夜明け前の街を、ユースフの家に向かって転がるように走った。


 ユースフを訪ねるのはいつもサライの都合だ。当然、いつ行くかなど連絡する手段は何もない。

 ユースフは日中軍務に就いているので、二人が会えるのは、いつも夜になってからだった。行き当たりばったりの逢瀬は、ユースフの不在や夜半の来客などで頓挫する事もあった。

 聖地オス・ローにも麓の一角に、酒場や遊廓などが集まる盛り場がある。だが、人目を避ける二人がそんな所に足を運ぶはずもなく、結果、二人はいつもユースフの家の狭いベッドの上で夜を過ごしていた。

 その事をユースフは気にしていたのだろうか、初めて男の方から誘いがあった。

「俺は、来週、私用でヴァロニアのラドムまで行くんだ。連れて行ってやる。来れるなら来い」

 そう言って、ユースフは今日のヴァロニア行きにサライを誘ってくれたのだ。

 正直、外界のことは良く知らないので、ヴァロニアだ、ラドムだと言われても、サライにはさっぱりわからなかったのだが。そんなことはどうでも良かったのだ。

 サライは、ユースフが断り切れずに自分と付き合ってくれたことには気がついていた。だからこそ、こうしてユースフから誘いの声をかけてくれたことに、まさしく天にも昇る心地だった。

 石畳の道を走るサライの足音は、夜明け前の家々の間を、いつもよりも大きく弾んで響いていた。




*   *   *   *   *




 ユースフの家の戸が軽快に五回鳴った。

 ユースフはすぐに扉を開け、サライを中に招き入れた。薄暗い部屋の中には、オイルランプが一つだけ灯されている。ほのかな明かりに、二人の姿がぼんやり浮かび上がった。

 ユースフの奴隷達はまだ眠っている。彼らは夜明けとともに起き出すはずだ。

「サライ、これに着替えろ。夜が明ける前に出発するぞ」

 ユースフは、サライに異国の服を差し出した。暗い色の上衣チュニックと男がはいているトラウザーだ。

 ユースフ自身も、今日はいつものシュケムの軍服ではない。ここらでは珍しい、革でできた異国の服を身に着けている。いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、サライは少し戸惑った。

「何も心配することない。ただの物見だ」

 ユースフは、心もとない顔をするサライにほほ笑んだ。

 服を受け取るサライの左手の薬指に、指輪がはめられているのにユースフは気づいた。前回会ったときには、指輪などしていなかったはずだ。もちろんユースフが贈ったわけではない。ユースフの左手にも、同じように指輪がはめられている。その指輪の持つ意味を思い、喉を絞められるように苦しくなる。

 サライは、その場で上に着ていた長い羽織を脱いだ。砂色の羽織の下に着ていた【エブラの民】の白い衣装があらわになる。ユースフはふいとサライから目をそらした。

 視界の外でサライが服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえた。無意識のうちに、ユースフはいつもサライの白い衣装から目を逸らすようになっていた。



 朝もやの中、厚手の外套に身を包んだ二人は通りを下った。

 オス・ローの麓では、盛り場で遊んでこれから眠りに戻る人や、起きだした巡礼者たちの気配があった。まだ辺りは薄暗くて、お互いの顔ははっきりとは見えなかった。

 ユースフは共同厩舎から馬を一頭連れ出し、鞍上にサライを押し上げた。自分もその後ろに跨ると、サライの外套のフードをさらに目深にかぶらせる。自分も同じようにフードを深く被り、オス・ローの街の外へと向かった。

 ユースフはサライを連れて、海岸沿いを北へと馬をゆっくりと走らせた。


 サライが馬を見て目を輝かせていたのは、まだ十三歳の少女だった頃の話だ。十六歳になった今でも喜んでくれるのだろうか。――そんなユースフの不安は一瞬で払拭された。

 厩舎に足を踏み入れた瞬間から、サライの興奮は今も続いている。ユースフに抱かれるように馬に乗っているサライは、常脚で歩く馬のたてがみをなでていた。たてがみのすそをこっそりといじっては指にからめて遊んでいる。

 シュケムでは、男が女のために出来ることといえば、夫として社会的な地位を上げることや、官能的な欲望を満たしてやるくらいだ。他には生まれた子に名声を得させ、その母として名をとどろかせることぐらいだった。

 しかし、そんなことをサライが望んでいるはずがない。サライの望みは何なのか、ユースフには皆目見当がつかなかった。

 ユースフは、サライの考えていることがよくわからない。なぜサライが自分を選んだのか、ユースフにはその理由さえもわからないままだ。

 二人の関係は、サライの方がユースフに依存しているように見えたが、ユースフ自身はそうは感じていなかった。サライはきっとユースフの弱さを見抜いていている。それでもサライはそのままの自分を受けとめてくれる。

 実際にユースフがサライに弱みを見せることなど決してないが、サライの前でだけは自分を偽らないでいい。そしてサライだけは、不甲斐ない自分でも赦してくれるという不思議な安心感があった。

 サライと夜を過ごすようになってからほぼ一年が過ぎ、ユースフはサライが【エブラの民】であることを忘れかけていた。

 そんなユースフが、サライに何かしてやれる事がないか考えた結果がこれだった。

 高い壁に囲まれた閉鎖的な社会で暮らすサライに、外の世界を見せてやりたくなった。砂と石と海の色しか見たことのないサライに、緑の風景を見せてやりたいと思ったのだ。




*   *   *   *   *





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