41-2
出て行った黒人少年と入れ替わるように、ジェードが【王の間】へ飛び込んできた。
血相を変え、応接にいるハリーファの姿を確認すると、泣きそうな顔をしてハリーファに抱きついてきた。
その勢いに、ハリーファは二歩ほど後退った。抱きとめて良いものか迷い、両腕がさまよう。何事なのか、すぐにはわからなかったが、ジェードの心からは、アルフェラツに対する恐怖と、ハリーファが生きていることへの安堵が伝わってきた。
「……よかった……」
ハリーファの肩に額をのせ、ジェードが小さな声でつぶやいた。
(生きてた……)
「ジェード」
名を呼ばれて、少女は顔を上げ、抱きついていた手をほどいた。
「だって、さっき、【天使】様によく似た人が……」
ハリーファの服をつかんでいる手が、まだ震えている。
「もしかしたら、わたしが天命に従わないから、【天使】様が、人の姿で、ハリを……殺しに来たのかと思って……」
東大陸生まれの感覚はあまりあてにはできないと思っていたが、ジェードの目から見てもソルはアルフェラツに似て見えるようだ。
「俺は、お前以外の誰にも殺されたりしない」
安心させるつもりで言った言葉は、どうやら選択を誤ったようだ。ジェードはうつむき、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
どう言えばジェードを慰められるのか悩みながら、ハリーファは正直に言葉を選んだ。
「ジェード、さっきの男はアルフェラツに似ているが、【天使】じゃない。あいつは、異母姉の夫の奴隷なんだ。最近、皇宮に出入りしているようだったから、色々と仕事を頼んでいたんだ」
「……本当? あっ、もしかして、櫛や鏡もあの人に頼んでいたの?」
「ああ、そうだ。俺は外には出られないからな」
そう言って、ハリーファはさっきソルの持ってきたものを指さした。
「あれは、お前のものか?」
テーブル上の濃緑色の表紙の聖典を見て、ジェードは思わずあっと声を上げた。驚きで目を大きく見ひらく。
「……聖典?」
まだ涙声のジェードは、やっとハリーファから手を離した。
ハリーファはテーブルから聖典を取り、ジェードに手渡す。
「……わ、わたしのだわ! 聖地でなくしてしまったのに……」
「あいつが、聖地まで行って探してくれた。お前の父親の短剣もだ」
「本当!? パパの短剣まで……」
ジェードの心を覆っていた恐怖が薄れていくのが、ハリーファにはわかった。
「短剣は、今打ち直しを頼んである」
「……ハリ、本当に、ありがとう……」
ジェードの瞳が、先程とは違う色に潤んだ。
一日の仕事を終え、ジェードはようやく汚れた聖典を手に取った。
オイルランプの影がちらちらとゆれる中、応接の片隅で、聖典のページをゆっくりとめくる。
あれから一年半だ。日に焼けた濃緑色の表紙はボロボロだが、中の印刷された文字や版画はまだ十分に読み取れた。ジェードがていねいにページを開く。クライスの教えが綴られた文にまじって、時々挿絵が版画されている。
墨一色で刷られた絵は、金の髪の白人に見える天使と、黒い肌に大きな耳の異形の悪魔の姿が対比的に描かれている。
(天使様の絵……。この絵は、アルフェラツ様とは全然ちがうわ……)
ジェードは、聖典の挿絵を見つめたまま、立ち尽くした。後ろめたそうな顔をして、長椅子に座っているハリーファに問いかける。
「ハリはとっくに気付いていると思うけど、わたし、【天使】様が、怖いの……。だって、悪魔みたいに【黒】いし……、それに、ハリのことを殺せだなんて……」
ジェードはすがるようにハリーファの翠の瞳を見つめる。
「は? 悪魔が【黒】い?」
【悪魔】は金色の髪に白い肌だ。ジェードの言い分を不思議に思い、ハリーファはジェードのそばに行き、その手元を覗きこんだ。
そこに描かれている挿絵を見て、ハリーファは気がついた。
印刷技術と教育制度により、二百年前から、ヴァロニアでは貧しいものにまで聖典が配られるようになった。そこに描かれていたのが、【黒】い肌の悪魔だ。
聖地巡礼が行われていたころには、聖地を訪れる西大陸人も、黒人のみならず、多種の人種を目にしていたはずだ。国境が封鎖されたことにより黒人の存在を知らされず、聖典の挿絵によって、【黒】が悪しきものだと刷り込まれている。
「ジェード、【悪魔】はこんな姿じゃないぞ。この絵が間違っている」
「……ハリは、……見たことあるの?」
顔をあげたジェードの瞳にハリーファの顔が映っている。
「ああ……」
ハリーファは歯切れ悪く返事すると、ジェードから目をそらした。
(ハリが言うなら真実なんだわ……。でも、【天使】様はどうしてハリを)
「アルフェラツが俺を殺せと言うのには……、ちゃんと理由があるんだ」
「理由?」
おそらく、ユースフがサライと関係を持ったことによって、結果的に聖地と天使の末裔である【エブラの民】を滅ぼしたからなのだろう。
なぜかジェードには本当のことを伝えたくなかった。
「……俺は、【天使】から疎まれているんだ」
「疎まれてるって……。そんなはずないわ。天使様はすべての命を祝福してくださるのよ」
ジェードの純粋な心が痛いほど伝わってくる。
「それに、どうしてわたしなの? ハリを殺すことがわたしの天命だって言っていたわ」
なぜジェードがそのような天命を持って生まれたのか、それはハリーファにもわからなかった。
「アルフェラツ様に感じていた恐怖は、畏怖なんだって思ってたの。でも、今日、あの黒い人に腕をつかまれて、同じようにとても怖かったの……」
ヴァロニアで生まれ育ち、ファールークでも宮廷から出たことのないジェードには、黒い肌を恐れる理由がわからないのだろう。ハリーファは言うべきかどうか一瞬迷った。しかし、ジェードの心の迷いが晴れるならと、結局はっきりと口にした。
「それは壁だ」
「かべ……?」
ジェードは腑に落ちない顔で、ハリーファを見つめてくる。
「お前の中にある恐怖は、侮蔑の心だ。お前は黒い肌を蔑んでいる」
ハリーファの言い方がきつかったのか、ジェードの瞳が少し潤んだ。
(蔑んでる……?)
やはりジェードには、ハリーファの言った言葉は受け入れがたいようだった。黒い瞳がかすかに揺れる。
「お前の心が作り出した壁だ。お前が自分で崩すしかない」
「崩すって、どうすれば……」
ハリーファはジェードから聖典を奪うと、中の挿絵のページをびりびりと破りとった。それを机の上に置き、ジェードの手に聖典を返した。
ハリーファはぼう然とするジェードを置いて、そのまま寝室へと入っていった。
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