5.天命
ジェードは天使の声にしたがい、太陽の方向に馬を進めた。
そしてようやくたどり着いた街は、崩れ落ちた街の跡地だった。そこは見渡す限り砂色だ。道中、ジェードを歓迎していた鮮やかなピンクの花もここには咲いていない。
ここが聖地オス・ローだと気づかぬまま、ジェードは足を踏みいれた。
馬からおり、自らの足で砂上を歩む。
馬を引きながら、崩れ落ちた街を見まわした。土のレンガで出来た家はすべて崩れ落ち、人が住んでいる形跡はない。大通りだったと思われる道の石畳も、ほとんど砂に埋もれてしまっている。
通りの横には昔は民家が立ち並んでいたのだろう。壷やテーブルなど、まだ元の形がわかる物がたくさん散らばり、砂をかぶっていた。
その光景に何も言葉が出てこない。まるで遺跡だ。
およそ百五十年前にシーランド王国とファールーク皇国が聖地をめぐって争ったのだと、学校で習ったのを思い起こした。
「誰か! 誰かいませんか?」
ジェードは何度か大声で叫んだが、声は反響することもなく砂に吸い込まれていく。やがてのどが熱くなり、あきらめて叫ぶのをやめた。水筒にくんできた水を少しずつ口にしたが、いつまでものどの乾きは癒やされない。服の中で胸の間を汗がつたう。
本当にここが聖地なのだろうか? ルースに聞いた小話から思い描いていた聖地とは全くちがう。頭上からの熱さのあまり目眩を覚えた。
ジェードは馬の腹に手をそえ、ゆっくりと歩きながら祈った。
「天使様、ここに無事にたどり着けたことに感謝いたします。ここが聖地なのですか?」
ジェードが不安を声にすると、間もなく【声】がささやいた。
『――そのまま、丘の上の門を目指しなさい』
ジェードが歩いている大通りは丘へ向かう坂道になっている。頂上を見あげるが、目に見えるところには原型の残っている建物は何もない。
「門? 天使様、わたしには何も見えないのですが……。丘の上に行けば、門があるのですか?」
『ええ――』
天使の声にジェードはほっとした。
「ウーノ、ここで待っててね」
ジェードは馬に話しかけると手綱を瓦礫の柱に引っ掛けた。荷物もすべて馬のそばにおろし、丘の上の門まで一人で歩き出した。
不思議と歩みは小走りになる。ちょうど坂の上に太陽が位置し、まぶしさに手で庇を作る。
刺すように照りつける光をさえぎるものは何もなく、ジェードは両頬に少し痛みを覚えた。坂道をずいぶんをのぼった後で、外套をかぶってこなかったことを後悔したが、ふり返らずに坂道をのぼり続けた。
ようやく丘を登りきると、崩れた城壁にかろうじて門の柱だけが姿をとどめている。そこにあっただろう扉も、その門跡の向こう側の建物も崩れ去っていた。
「こ、これが門……?」
ジェードは残骸と化した門の柱の間を通り、奥へとむかった。
強い日差しが降り注ぐ中、砂の上を歩む。ジェードの微かな足音だけが聞こえた。
天使が言っていた門をこえて奥に進むと、建物が土台を残しているところがあった。それらはヴァロニアの建築様式とは全く違うため、土台だけを見ても元が何だったのか、ジェードには想像できない。この場所は一体どんな場所だったのだろうか。
ずっと奥に進んでいくと、天井と壁がくずれ、床と柱がむき出しになった建物跡が見えてきた。
そこに誰かが立っている。
強い日差しで空気がゆらゆらと揺らいでいる。近づくとようやくその人物の姿が少しずつ鮮明になる。
白い服に、輝くような白く長い髪が肩にかかっている。
(――天使様?)
『よくぞここまで来ましたね、ジェード――』
その声は間違いなく、今まで聞いていた【天使】の声だった。期待に胸が強く打ちはじめ、ジェードは恐る恐る近づいていった。
ジェードが進むと、空気の揺らぎも同じように奥へと移動する。
揺らぎが通り過ぎ、その人物の姿がはっきり見えた。
その瞬間――。
ジェードの足はピタリと止まって、その場から一歩も動けなくなった。
天使は崩れた代理石の床の上に立ち、ジェードが来るのを待っていた。
菫色の瞳、真白い髪。だが、ジェードの予想とは違い、女性は黒い肌だった。
黒い肌を見た時、ジェードは恐怖で声を詰まらせた。その姿はジェードが描いていた【天使】のイメージとは全く違う。逃げ出してしまいたかったが、足がすくんで動けない。ジェードはこの世に黒い肌の人間がいるとは知らず、生まれて初めて黒い肌を見たのだ。
恐怖で心臓が早鐘のようになり出した。黒い肌は、まるで聖典に描かれた絵に出てくる悪魔のようだ。ついさっきまで、熱さに悲鳴をあげていた肌が急に冷たくなった。
『よくぞここまで来ましたね、ジェード』
黒い肌の女性は同じ言葉を繰り返した。母親のような優しい笑みを浮かべる。その表情は慈愛に満ちていて、肌の黒さにおびえるジェードの心は混乱した。
「て、天使、様、なの……? 本当に……?」
動揺を隠せないまま、ジェードは崩れるようにひざまずいた。足が動かず、立っていられない。両手を胸の前で組むと、黒い肌の恐ろしさに目をぎゅっと閉じた。
『どう呼ぼうとも構いません。私の名はアルフェラツです――』
その【声】は今までと同じように、ジェードの心の中に直接語りかけてきた。
目を開いてもう一度天使に顔を向けるが、白い衣装から出ている黒い腕がしつこいほど目についてしまう。
目の前の黒い女性が本当に天使なのか信用できない。女性は天使のふりをした【悪魔】で、自分はだまされているのではないだろうか。
『ジェード、貴女の求めることを全てお話しましょう』
【声】は心に直接響き、女性の口元は動いていなかった。白く長い衣服のすそを揺らしながら、ゆっくりとジェードのそばまで歩いてきた。
アルフェラツの声は、今までジェードの祈りに答えてくれた【天使】の声と同じだ。そうわかっていても、聞かずにはおれずアルフェラツに問いかけた。
「ア、アルフェラツ様は、……本当に、【天使】様なの……?」
アルフェラツは、ジェードの猜疑心などとうに見透かしているかのような表情をジェードに向けた。
『貴女がこの世に生まれる時に、私と貴女は出会っていますよ』
「そ、そんな、赤ん坊の時のことなんか……」
覚えていないと言おうとすると、
『貴女が生まれる時に、貴女の姉とも出会っています。貴女の姉は、私のことを貴女に話したはずです』
天使の言うとおり、天使に助けられてジェードが生まれた話を、ルースはホープにはしていない。あの話は姉妹二人だけの秘密の話だ。
やはり、この人は【天使】なのだ。たとえ本当は悪魔だったとしても、ルースから聞いていた、今までジェードの祈りに応えてくれていた【天使】には違いなかった。
「……で、では、天使様。……教えてください。なぜ、わたしはここへ来なければ、ならなかったのですか? ウィル……いえ、友達から、忌年に贈り物をもらったから、なのですか? もしそうなら、……どうか、お許しください」